天文六年 〜 慶長三年 (1537-1598) / 享年六十二
豊臣秀吉
百姓の子から太閤へ ── 一代で築き、一代で消えた夢の跡
第一章 中村
足軽の子、信長に出会う
天文六年 二月六日 (1537年3月17日)、尾張国愛知郡中村郷。木曽三川の合間にひらかれた濃尾平野の一角、農繁の合間に槍を取る半農半士の足軽 木下弥右衛門の倅として、一人の男児が生まれた。幼名 日吉丸。後に 木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉、世にいう「太閤」となる男の、出発点であった。生年については天文五年 (1536) 説も江戸期『太閤素生記』に残るが、伊藤秀盛が天正18年 (1590) に飛騨石徹白神社へ奉納した願文の生年記載などから、現在は天文六年説が学界の大勢である。
戦国乱世のただ中、足軽の子に生まれることは、ほぼ「歴史に名を残せぬ宿命」を意味した。当時の武士は 譜代 の家臣団に席が用意され、領主の子が領主に、家老の子が家老になる世界である。氏も領も持たぬ農民の子に開いていたのは、せいぜい槍働きで戦死するか、土豪の小者として一生を終えるかの二択であった。日吉丸の 下剋上 は、当人の意志以前に、この閉じた身分構造そのものへの叛逆として始まる。
父 弥右衛門は日吉丸が七歳の頃に没したとされ、母 なか (後の 大政所) は同じ織田家の同朋衆 竹阿弥という男と再婚した。継父との不和は深刻で、寺に預けられても勤行に身が入らず逃げ出し、十五歳前後で中村を出奔。針売り、瀬戸物売り、駿河の 松下加兵衛 (今川氏被官) のもとでの草履持ち奉公、遠江・三河を流れる放浪──十代の数年間、日吉丸は確たる住処も主もないまま、東海道筋の市と街道を生きた。氏も領も持たぬ少年が武家社会で立身する道はただ一つ、「時代を読む眼の鋭い主君を、自分の足で探し当てること」であった。
天文二十三年 (1554) 前後、十八歳の藤吉郎は尾張へ流れ戻り、清洲城下で 織田信長 に仕官する。信長は二十一歳、桶狭間の六年前、まだ「うつけ者」の評判が抜けきらぬ若き当主であった。最初の役目は 草履取り。雪降る朝、信長の草履を懐に入れて温めていたという逸話は同時代史料に裏付けはないが、藤吉郎という男の本質── 細部までよく気が回り、主の機微を逃さない観察眼 ──をよく伝えるエピソードとして語り継がれてきた。信長は天正九年 (1581) 北政所ねね宛の書状で秀吉を 「はげねずみ」 と呼んでおり (実物が現存)、これが文字資料に残る最も確かな蔑称である。江戸期以降に広まる「猿」の通称は、容貌を揶揄する後世の俗称と考えられている。
同じころ清洲の馬廻り組には、もう一人 藤吉郎と並んで信長の寵を競う若者がいた── 前田利家、通称 又左衛門。尾張荒子の土豪の四男として生まれ、藤吉郎とほぼ同年代 (生年は天文7年/1538説と天文6年/1537秀吉と同年説あり)、槍働きでは家中随一の若武者であった。永禄二年 (1559) 一月、利家は信長の寵童 拾阿弥 (じゅうあみ) を信長許可なく斬殺する。妻 まつの父の形見の笄 (こうがい) を盗まれた怒りからの私闘で、信長は激怒し利家を出仕停止に処す。利家は浪人となり諸国を流浪、桶狭間 (1560) と森部の戦い (1561) の戦功でようやく帰参を許される。藤吉郎は浪人時代の利家を陰で支えたとされ、二人の妻 ねね と まつ は終生の親友、両家は豊臣政権の最深部まで運命を共にしていく。秀吉が後年「賤ヶ岳で利家が動いてくれたから勝てた」と語る恩義の根は、この清洲時代の苦楽にある。
永禄四年 (1561)、藤吉郎は浅野長勝の養女 ねね と結婚。武家らしい正妻を得たことは、足軽あがりの彼が織田家中で「一個の家」を立てた最初の徴であった。同時期、母 なかと末弟 小一郎 (後の 豊臣秀長) を尾張から呼び寄せる。秀長は兄と十歳の年齢差を超えて生涯影のように寄り添い、後に大和大納言として豊臣政権の調整役を一手に担う──兄弟二人で天下を取りに行く豊臣家の原型は、すでにこの清洲の小さな家で結ばれていた。
永禄九年 (1566) には美濃攻略に従い、長良川と犀川の合流点 墨俣 に一夜で城を築いたと 伝わる。ただし「墨俣一夜城」の劇的な逸話は江戸期の軍記『武功夜話』『絵本太閤記』などに由来し、同時代の一次史料『信長公記』にはその記述がなく、近年は伝説とみる説が学界の大勢である。それでも藤吉郎が美濃国境の最前線で土木と兵站を取り仕切り、後年 水攻め・兵糧攻め の名手となる素地を、この美濃国境でひそかに鍛えていたことは疑いがない。
永禄十年 (1567) 八月、藤吉郎は西美濃三人衆 (稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就) を信長方へ寝返らせる調略に深く関与する。難攻不落と謳われた斎藤龍興の 稲葉山城 は内応によって陥落、信長はこれを「岐阜」と改名、「天下布武」の朱印を用い始めた。同じころ、岐阜城下に隠棲していたもう一人の天才── 竹中半兵衛重治 ──を、藤吉郎は 三顧の礼 で口説き落としたと伝わる。半兵衛は永禄七年 (1564) に家臣十数名と安藤守就の兵で稲葉山城を乗っ取り、無能な主君 斎藤龍興を諌めるためだけに城を返却して隠棲した、美濃随一の軍師である。隠者と化していた彼を、農民出身の藤吉郎が幾度も訪ねて泣き落とした──この逸話の細部には江戸期 (『太閤記』など) の脚色が混じるが、半兵衛が秀吉の与力となって以降、彼の戦の質が一段上がったことは紛れもない事実である。藤吉郎、三十一歳。
翌永禄十一年 (1568)、信長は足利義昭を奉じて上洛、藤吉郎も従軍する。京の政治を初めて目の当たりにした農民の子が、後年 関白に上りつめる遠い遠い種子が、この上洛で蒔かれた。三十二歳。出世の階を、いよいよ駆け上がっていく。
そして元亀元年 (1570) 四月、信長と 浅井長政 の同盟が、越前朝倉攻めの最中に突如として崩壊する。背後を断たれた織田軍は壊滅の危機に陥り、信長は単身で近江路を駆け、京へ逃げ帰った。残された 殿軍 には、藤吉郎・明智光秀・摂津守護 池田勝正の三将が当たったと伝わる──のちに「秀吉が一手に殿を引き受けた」と語られるのは江戸期軍記の脚色で、近年は 身分の高い池田勝正を頭に三人が協同した とみる説が有力である。彼の生涯における最初の決定的な舞台── 金ヶ崎の退き口 が、ここに開く。
草履取りから城持ち大名へ
清洲 → 稲葉山 → 金ヶ崎 → 小谷城 → 長浜
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第二章 出世の道
清洲から長浜へ ── 二十年の駆け上がり
天文二十三年 清洲城
1554年、十八歳の藤吉郎が 織田信長 に仕官した。当時の清洲城は、信長が父 信秀から受け継いだ尾張下四郡の本拠で、家臣団は柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛・林秀貞ら譜代に占められていた。氏も領も持たぬ藤吉郎の最初の役目は 草履取り。次いで小者頭、台所奉行、足軽組頭、馬廻りと、表舞台に近づくのに十年近くを要した。
譜代でも一族でもない男が、その中で頭角を現せたのは 雑事の精度 ゆえであった。米倉の在庫管理、台所の節約、城下町の道路整備、信長が好む朝の汁の温度まで──地味な事務を一切手抜きせず仕上げ続けた。信長は若くして「能吏を見抜く眼」を持っており、家中の蔑称「猿」「禿げ鼠」を笑いながらも、藤吉郎を意外な早さで馬廻り組に取り立てる。
同じ清洲の馬廻りには 前田利家 がいた。利家は藤吉郎とほぼ同年代 (1538年生説/秀吉と同年1537年生説あり)、永禄2年 (1559) 一月、寵童 拾阿弥を信長許可なく斬って出仕停止、浪人となる。藤吉郎は浪人時代の利家を陰で支援したと伝わり、二人の友誼は四半世紀後の 賤ヶ岳 へまっすぐ繋がっていく。雑事と縁故── 足軽の子が天下人になる二本のレール は、この清洲時代に敷かれた。
永禄九〜十年 墨俣・稲葉山城
1566年頃、藤吉郎は美濃斎藤氏との国境、長良川と犀川の合流点 墨俣 に砦を築いたと 伝わる ──いわゆる「墨俣一夜城」である。ただし一夜で築いたという劇的な逸話は江戸期に編まれた『武功夜話』『絵本太閤記』などの軍記由来で、一次史料『信長公記』には永禄四年 (1561) に信長が「洲股要害の修築」を命じた記述はあるものの、永禄九年の藤吉郎による一夜築城を裏付ける同時代史料は確認されていない。事実の核は「藤吉郎が最前線で土木と兵站を仕切れる男だと、信長が見抜いていた」という一点にある。
翌永禄十年 (1567) 八月、藤吉郎は美濃三人衆 (稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就) を信長方へ寝返らせる調略に深く関与した。同時期、岐阜城下に隠棲していた美濃随一の軍師 竹中半兵衛重治 を 三顧の礼 で口説き、自らの与力に迎える。半兵衛は永禄七年 (1564)、家臣十数名と安藤守就の兵で稲葉山城を乗っ取り、無能な主君 斎藤龍興を諌めただけで城を返した二十一歳 (数え年) の天才で、農民出身の藤吉郎が幾度も訪ねて泣き落とした逸話は江戸期の彩色も混じるが、半兵衛の与力化以降の戦の質的変化は紛れもない。
半兵衛と三人衆の内応で、難攻不落と謳われた 稲葉山城 は陥落する。信長はこれを「岐阜」と命名 (中国 周の文王が天下を取った地名「岐山」に由来)、「天下布武」の朱印を用い始めた。天下統一構想の旗が、藤吉郎の手で美濃の天守に翻った瞬間であった。藤吉郎、三十一歳。出世の第一段、ここに完成。
元亀元年 四月 金ヶ崎の退き口
元亀元年 (1570) 四月二十日、信長は越前 朝倉義景を討つべく三万の軍勢を率い京から若狭路へ進軍した。藤吉郎・明智光秀・徳川家康・池田勝正らが従軍、二十五日に若狭国境の 手筒山城 を一日で落とし、翌二十六日には敦賀湾を見下ろす 金ヶ崎城 を陥落させた。朝倉本拠 一乗谷まで残り五十キロ──そこへ、近江北部から早馬が飛び込む。「妹婿 浅井長政 挙兵、織田勢の背後を断つ」。お市の方が小豆を両端で結んだ袋を兄に届け「袋の鼠」を暗示した、という有名な逸話は『浅井三代記』などに伝わる軍記の彩色で、確たる一次史料の裏付けはない。
信長は即座に撤退を決断、しかし三万の大軍が無傷で退くには 殿軍 が必要だった。『信長公記』には金ヶ崎に藤吉郎が残されたと記されるが、後年の文書群 (『武家雲箋』など) はそこに摂津守護 池田勝正・明智光秀の名を併記する。秀吉単独の手柄として語られるのは江戸期軍記の彩色で、実態は 身分の高い池田勝正を頭に三将が協同した 撤退戦であったとみる説が今は有力である。
朝倉勢の追撃と浅井勢の北上が金ヶ崎の岬を挟撃するなか、三将は鉄砲と斬り込みで時を稼ぎ、信長を 朽木越え (近江高島の朽木元綱の協力による山中ルート) で京へ生還させる。信長が京に到着したのは四月三十日深夜、付き従う者わずか十人ほどであった。藤吉郎ら殿軍もほどなく撤退を解き京へ戻る。死を覚悟して数日の血戦に立ち会った経験は、彼に 「殿を引ける男」 という織田家中での評価を刻みつけた──この評価が、十二年後の 中国大返し での即断と兵の従順を準備していく。「金ヶ崎の退き口」、人生最大の転機であった。
天正元年 八月 小谷城落城
金ヶ崎から三年余、信長は雪辱戦に挑み続けた。元亀元年六月 姉川の戦い で浅井朝倉連合軍を撃破。藤吉郎はこの戦で横山城を任され、以後 北近江方面の最前線指揮官 として独立性を強めていく。続く比叡山焼き討ち (1571)、信長包囲網の崩壊、武田信玄の急死 (1573) ──三年で戦況は完全に反転した。
1573年 (天正元年) 八月、信長はついに浅井長政の本拠 小谷城 へ最終攻勢を仕掛ける。標高495メートルの伊吹山塊の支尾根に築かれた小谷城は、本丸・中の丸・京極丸・山王丸が直線に連なる難攻不落の連郭式山城であった。信長は藤吉郎を寄せ手の主将格に任じ、京極丸・小丸の攻略を一任する。
藤吉郎の戦法は 正面突破ではなく分断 であった。浅井方の重臣 阿閉貞征・宮部継潤らを事前調略で寝返らせ、八月二十七日夜半に 京極丸 を奇襲で占領。父子の連絡を切断する。これにより本丸の長政と小丸の父 久政が分断され、まず久政が自刃、翌九月一日 長政自刃、享年二十九。最後の使者として長政から「妻と娘三人だけは助けてほしい」と託された藤吉郎は、信長の妹 お市の方 と三姉妹 (茶々・初・江) を炎の中から救出した。
──末妹 茶々が 淀殿 として秀吉の側室となるのは、この日から十五年後。次妹 初は京極高次に、末妹 江は徳川秀忠 (後の二代将軍) に嫁す。「小谷で救った三姉妹」がやがて豊臣と徳川の血脈を結び、そして引き裂く──歴史は、すでにここで複層の結び目を作っていた。
天正元年〜三年 長浜城
浅井攻略の功で、藤吉郎は浅井旧領 北近江三郡 (浅井・伊香・坂田)、およそ十二万石を拝領した。同じ頃 (元亀4年/天正元年 1573年7月20日に初出) より 羽柴 の姓を名乗り始めた。『豊鑑』は柴田勝家の「柴」と丹羽長秀の「羽」を組み合わせたものと記すが、近年は出典の信頼性に疑問も呈されている。足軽の子が国持ち大名となった瞬間 ── 仕官から十九年であった。
新領主 羽柴秀吉は本拠を旧浅井家の小谷城に置かず、琵琶湖畔の港町 今浜 を選んで新城築造を開始した。地名は信長の名から「長」の一字を頂き 長浜 と改める (信長への配慮を細部で示す秀吉らしい一手)。1574年に着工、1576年に本丸・天守を竣工、湖と陸の物流結節点に都市を新造した。
長浜城下では 地子免除 (宅地税を免じる) と 楽市楽座 の精神を実装、近江・美濃・北陸の商人を呼び寄せ、湖上交通と北国街道の要衝として急速に繁栄させた。妻 ねね、母 大政所、弟 秀長、甥 秀次がここに集住、清洲時代から子飼いに育てていた 加藤清正・福島正則・加藤嘉明 ら少年たちもこの長浜で武将に成長していく。後年 賤ヶ岳七本槍を担う若武者の苗代は、この湖畔の小さな城下町であった。
同じ頃、信長から 中国方面軍司令官 に任命される。彼の戦線は、ここから西へ── 播磨・但馬・因幡・備前・備中・備後・九州・朝鮮へと、果てなく延びていくこととなる。大坂 の金鯱を載せた天守を構想する時にも、秀吉の原型としての街は、いつも湖を背にした 長浜 であった。
毛利との対決、五城の包囲戦
姫路 / 上月 / 三木 / 鳥取 / 備中高松
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第三章 中国攻め
兵糧攻めと水攻め ── 五年の戦線
天正五年 姫路城 (本拠)
天正五年 (1577) 十月、信長の 中国方面軍司令官 に正式任命された羽柴秀吉は、東上してくる毛利輝元 (備中・備後・出雲・伯耆・因幡・周防・長門・安芸の八ヶ国・約120万石) と対峙すべく、播磨へ入国する。受け皿として彼を出迎えたのが、播磨守護代 小寺政職の家老 黒田官兵衛孝高 であった。
官兵衛は自らの居城 姫路城 を秀吉に明け渡し、自身は二の丸へ退いて副将となる。この時の姫路城はまだ三層の小城で、池田輝政が築き直す現在の白鷺城 (1601-09築造) とは別物である。三層とはいえ、播磨平野を一望する独立丘 (姫山) に立ち、南は瀬戸内、北は中国山地に通じる絶好の戦略拠点であった。
秀吉は姫路に 兵糧奉行 の組織を整え、播磨・但馬・因幡・備前の地侍を一人ひとり調略していく。「攻め取らずに、買い取る」── 中国攻めの基本戦略は、ここで決まった。同時期、藤吉郎時代から軍師として支え続けた 竹中半兵衛 も陣中にあり、半兵衛と官兵衛は 「両兵衛」 と並び称される名コンビとなる。だが半兵衛は1579年六月、三木城攻めの陣中で病没。享年三十六。秀吉は最大の知恵袋を失ったが、半兵衛が今わの際に「これからは官兵衛を頼みなされ」と託したと伝わる。以後、官兵衛が 三木の干し殺し・鳥取の渇え殺し・備中高松の水攻め を立案し、本能寺後の 中国大返し の即決まで秀吉の影として支え続けることになる。
天正六年 上月城
天正六年 (1578)、播磨北西の 上月城 (現在の兵庫県佐用町) は、毛利方と織田方が三度にわたって争奪した最前線の要衝であった。秀吉は当初、毛利に滅ぼされた出雲の旧主家 尼子勝久 と、伝説の忠臣 山中鹿之介幸盛 をこの城に入れる。「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと伝わる鹿之介は、尼子再興のために毛利と戦い続けてきた執念の男であった。
四月、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の三本軍 約三万が上月城を取り囲む。秀吉は救援に向かうが、同時に進行中の 三木城包囲 も抱えていた。信長は冷酷に裁断する──「上月放棄、三木に集中せよ」。秀吉は涙を呑んで撤退、城内の尼子主従を見殺しにする決定的な選択を強いられた。
七月三日、尼子勝久は弟 通久と共に自刃、享年二十六。城兵助命の条件で開城した山中鹿之介は、毛利方に身柄を移送される途中、備中国 阿井の渡し (現・岡山県高梁市) の高梁川畔で殺害された。天正六年七月十七日、享年三十四 (一説に四十前後)。輝元の指示か護送武将の独断かは諸説あるが、毛利が「鹿之介を生かせば必ず復讐に来る」と判断したことだけは諸書一致する。
秀吉はこの選択を生涯背負った形跡があり、後年 鹿之介の子 山中鹿之介幸元を取り立てている。「勝てぬ戦は捨てる、しかし犠牲は記憶する」 ── 冷徹な戦力資源の組み替えと、その後の細やかな感情処理。後年の九州・小田原戦でも反復される秀吉の計算癖の原型は、ここに完成した。
天正六〜八年 三木城 — 干し殺し
播磨東部の有力国人 別所長治 は、当初 秀吉に協力していたが、天正六年 (1578) 二月、毛利方の調略に応じて突如離反した。背景には、織田家中で別所より格下に扱われたことへの反発、毛利の「織田は遠く毛利は近し」という現実的説得、そして弟 友之・叔父 吉親ら一族の強硬論があったとされる。秀吉は同年三月末 (新暦 五月初旬) から 三木城 (兵庫県三木市) の本格包囲を開始する。
三木城は小高い丘の上に築かれた播磨随一の堅城で、約7,500の兵と城下の領民を抱え込んでいた。秀吉は強攻を捨て、官兵衛と半兵衛が立案した 付城戦法 を実行する──三木城を囲むように30以上の付け城・付け砦を築き、それらを土塁と空堀で連結、城内への補給路を完全に遮断するという、戦国期 類例なき大規模長期封鎖網であった。播磨の年貢米はすべて秀吉が買い占め、毛利からの海路補給も赤松・宇喜多の調略で寸断する。
包囲は1年10か月 (天正6年3月末〜天正8年1月) に及び、城内は地獄と化す。雑草・木皮・革具足の煮込み、最後は人肉相食の惨状に至った。世にいう「三木の干し殺し」である。なお、軍師 竹中半兵衛 はこの包囲戦の陣中、平井山本陣で病没 (1579年6月13日、享年三十六)。秀吉は最大の知恵袋を失う。
1580年正月十七日、別所長治は妻 照子・弟 友之・叔父 吉親と共に自刃、城兵の助命と引き換えに城を開いた。長治辞世「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我が身とおもへば」──「自分一人の命で城兵が生きるなら、何の恨みも残らぬ」。秀吉はこの辞世に深く感じ入り、長治の首を厚く葬ったと伝わる。戦闘よりも、交渉と土木で敵を屈服させる ── この戦法は同時代に類例なく、彼を「合戦上手」というより「包囲・調略・経済戦の名人」たらしめた。
天正九年 鳥取城 — 渇え殺し
天正九年 (1581) 春、毛利方の前線 鳥取城 (因幡国・現鳥取市) 攻めに際し、秀吉は前代未聞の経済戦を仕掛けた。城攻めに先立ち、若狭・但馬の 商人を装った秀吉方の手代 を因幡に送り込み、市場価格の倍以上で米を買い占めさせる。鳥取城の備蓄米まで放出させた末、商人たちは港から忽然と消え、因幡は深刻な米不足に陥った。城将に着任した吉川経家 (石見福光の名族) が天正九年三月十八日に入城した時、城内の蓄えは既に数十日分しか残っていなかった。
七月中旬、秀吉軍 約二万が鳥取城を完全包囲。城内には城兵約1,400に加え、周辺から逃げ込んだ農民まで含めると4,000人近くが立て籠もっていたとされる。包囲開始から約二か月で食料が底をつき、城内では雑草・木の根・牛馬・人肉──やがて餓死者の屍肉を奪い合う、戦国合戦史上最も凄惨な飢餓地獄が現出する。『信長公記』太田牛一は「飢えに堪えかね柵に取りつき、出して給べと泣き叫び候。即ち鉄炮にて打ち倒し、息のあるを廻り廻りて切り取り、争ひ食らひ候」と記す。
十月二十五日、吉川経家は 城兵全員の助命 を条件に自刃した。享年三十五。当初 経家は「毛利方の城将である自分一人が腹を切れば足りる」と申し出たが、城内に同居していた前城主 山名豊国の旧臣 中村春続・森下道誉も「我らも共に」と腹を切り、合わせて三名で責めを負った。
秀吉は経家の覚悟に深く心打たれ、亡骸を厚く葬り、後年も「武士の鏡なり」と繰り返し称えた。経家が嫡子に遺した遺書「日本二つの御弓矢、境にて切腹仕り候事、末代までの誉れに候」は今も現存する。戦闘ではなく時間と経済で勝つ── 秀吉の方法論は、ここでさらに洗練の極みに達した。
天正十年 五月 備中高松城 — 水攻め
天正十年 (1582) 三月、秀吉は約三万の兵で備中へ進出、毛利方最前線の七城 (宮路山・冠山・備中高松ほか) を順次攻略していく。最後に残ったのが、毛利の防衛線の要 備中高松城 ──城将 清水宗治 以下 約5,000が籠もる、足守川流域の沼地に築かれた平城であった。城域は東西500m、南北400m。本丸を取り囲む沼地が天然の堀となり、騎馬も鉄砲も近づけぬ 難攻不落の浮き城 として知られていた。
五月、秀吉は 黒田官兵衛 の献策により、史上類例なき大規模土木戦法を採用する。城南方の足守川 蛙ヶ鼻 (かわずがはな) から弧を描く形で 全長およそ3キロ・高さ約7メートルの堤防を、十二日間で築造 (堤防の実長については約300m説など近年再検討も進むが、城が水中の孤島と化した事実は揺るがない)。梅雨期の増水を呑み込ませ、城は文字通り 湖の中の小島 と化した。一日で米一升を運ぶ舟が城に入れず、城兵は石垣の上で雨を呑むしかなくなる。
五月下旬、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の本軍 約四万も猿掛城まで進出。両軍は足守川を挟んで対峙するが、増水した湖と秀吉軍の付城群に阻まれ、毛利は救援できぬまま膠着する。秀吉は 安国寺恵瓊 を介し、毛利との和睦交渉を開始。条件は「備中・備後・伯耆・出雲・美作の五ヶ国割譲+清水宗治の切腹」という重い内容で、毛利方は容易に首肯しない。
その膠着の最中、六月二日早暁、京 本能寺 にて 織田信長 が 明智光秀 に襲われ自刃する──。中国攻めの五年間が、この一報によって、まったく別の物語へと変奏されることになる。湿った備中の野陣で、秀吉は人生最大の決断を迫られた。
第四章 山崎の戦い
天正十年 六月十三日 ── 信長の仇を討つ
未の刻 両軍対峙
1582年7月2日 (天正十年六月十三日) 午後二時、山城国乙訓郡 山崎。円明寺川 (現・小泉川) を挟んで両軍が対峙する。秀吉軍 およそ四万 (織田信孝の支援軍含む)、明智軍 およそ一万六千。本能寺の変からわずか十一日後の決戦である。両軍兵力比2.5対1、しかも秀吉軍は十日の強行軍を経た直後で疲労の極にあった。先発の中川清秀・高山右近・池田恒興が天王山の麓を抑え、本陣には秀吉・羽柴秀長兄弟、後方には織田信孝・丹羽長秀の主力。光秀本陣は御坊塚 (現在の境野古墳群付近) に置かれた。梅雨明け前の雨雲が低く垂れ、湿った南風が槍の穂を撫でていた。
申の上刻 天王山争奪
申の上刻、夕立が降り始める。標高270メートルの 天王山 は、京都盆地と摂津平野を分かつ要衝で、京都への退路を扼す位置にある。光秀方の松田政近・並河易家隊 約2,000が斜面を登り防衛線を敷くが、中川清秀の精鋭3,000が刈穂田を駆け上がり押し返した。秀吉自身が先頭近くで指揮を執ったとの記録もある。視界は雨と霧で400-500メートルに狭まり、両軍ともに鉄炮の火縄が湿って点火に時間を要するようになる。長距離の鉄砲戦は不利、槍と刀の白兵戦に、戦闘は自然と帰っていった。後年「天下分け目の天王山」という慣用句はこの一刻、この斜面の争奪戦から生まれた。
申の下刻 戦端、開く
申の下刻、戦端開く。光秀軍左翼の伊勢貞興隊 (旧足利幕府奉公衆出身、京都の地理に詳しい精鋭2,000) が円明寺川を越えて秀吉軍中央へ突入。秀吉軍の高山右近隊が一時押されるが、堀秀政・蜂須賀正勝の予備隊が即座に投入され、明智の右翼を側撃した。同時に天王山頂を確保した中川清秀・高山右近は、上から光秀本陣を見下ろす位置を獲得、鉄砲で本陣を狙撃する。光秀軍右翼の阿閉貞征 (元浅井家臣、近江衆) も持ち堪えられず、徐々に本陣方向へ崩れていった。戦力比、地形、士気──三つの天秤がすべて秀吉に傾く瞬間であった。
酉の刻 明智、総崩れ
酉の刻、明智軍中央が崩れる。雨に濡れた本陣の幟が地に落ち、突入を続けていた伊勢貞興は乱戦の中で討死。斎藤利三 (光秀の腹心、後の春日局の父) は退却を支え続けるも、戦線崩壊後に山中で捕縛され京で磔刑となった。光秀本陣は近くの 勝竜寺城 へ退いたが、城は籠城構造でなく、僅か400の手勢では持ちこたえられぬ。光秀はその夜深夜、坂本城を目指して城を脱出する──そして十四日早暁、山科の 小栗栖 の竹藪で、落武者狩りの土民 中村長兵衛の竹槍に脇腹を貫かれて絶命。家来 溝尾庄兵衛が首を取り、近くの藪に隠したと伝わる。光秀、享年五十五 (生年不詳のため享年六十七説もあり)。三日天下、ここに終わる。
第五章 三日天下
中国大返しと、小栗栖の竹藪
天正十年 六月二日 早暁、京 本能寺。
明智光秀、一万三千で襲来。
「敵は本能寺にあり」。
信長、自ら火を放ち自刃す。
嫡子 信忠も二条御所にて討死。
織田家督、その日に断たる。享年四十九。
六月三日 深夜、備中高松城前 秀吉本陣。
毛利方への密使を偶然捕らえた者が、光秀の手紙を持参す。
「上様、本能寺にて自刃」。
秀吉、声を立てて泣く。
そして、官兵衛 耳元に囁く ── 「殿の御運、開かれ候」。
秀吉、即座に決断す。
六月四日早朝、毛利方 安国寺恵瓊と五ヶ国割譲を撤回し急ぎ和睦。
清水宗治、舟の上にて謡「誓願寺」を舞いつつ切腹。
辞世 ──「浮き世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して」。
秀吉、対岸より涙して見送る。「武士の鏡、ここに極まれり」。
六月六日、備中高松出陣。
全行程およそ230キロ、十日で踏破せん。
姫路の蔵を開き銀塊と兵糧を兵に投ぜよ── 中国大返し、始まる。
六月七日、沼城着 (約22km)。
六月八日 払暁、姫路へ──船坂峠を越えて72時間で姫路着 (備中高松→姫路 約92km)。
姫路で全軍に銀を分配、一日休息。
六月九日、姫路出陣。
明石→兵庫→尼崎と昼夜兼行、十一日 尼崎着 (姫路→尼崎 約75km)。
秀吉、栖賢寺にて剃髪、信長の喪に服す。
六月十二日、富田に布陣。
織田信孝・丹羽長秀の三好水軍合流。秀吉軍 ふくれて四万に。
「いざ、明智討つべし」。
六月十三日、山崎着陣 (姫路→山崎 約108km)。
申の刻、天王山にて激突。
夕立と地形を味方に、光秀軍 総崩れ。
六月十四日 深夜、山科 小栗栖の竹藪。
勝竜寺城を脱した光秀、坂本へ落ちる途中。
従う者わずか十名たらず。
落武者狩りの土民 中村長兵衛の竹槍が、暗闇より伸びる。
家来 溝尾庄兵衛、首を取りて藪に隠す。
「順逆二門に無し、大道心源に徹す」── 光秀辞世。享年五十五。
明智の三日天下、終わる。
そして 秀吉の天下が、ここから始まる。
第六章 太閤
数字が語る天下取り
山崎で光秀を討ち、信長の仇討ちを果たした秀吉。これより八年で天下を一統し、関白・太閤を歴任、海外にまで野望を伸ばした。一介の足軽の子が築いた帝国の規模を、数字で示す。
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中国大返し 全行程 (備中高松→山崎、十日間)
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関白 就任 (西暦・秀吉48歳)
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天下統一 達成 (北条氏滅亡)
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文禄の役 渡海兵力 (約15万8千)
山崎の戦いからわずか八年で天下を一統し、関白・太政大臣・太閤と昇りつめ、海を渡って大陸征服を試み、そして六十二年で生涯を閉じた。数字の上では尋常ではない速度の人生である。──だがその十五年は、近世日本の制度的基礎が築かれた十五年でもあった。次章では、天下人 秀吉が <em>築いた</em> 十五年と <em>失わせた</em> 十五年を、土地と人とで辿る。
第七章 太閤の十五年
築いた者、失わせた者 ── 1583〜1598
天正十一年 (1583) 四月二十一日、近江国伊香郡 賤ヶ岳。山崎の翌年、織田家の宿老 柴田勝家 と秀吉が、信長亡き後の織田家中の主導権を賭けて激突した。秀吉軍 約五万、勝家軍 約三万、岐阜の織田信孝 (信長三男) も勝家方として呼応する三つ巴の構図であった。
戦況の伏線は数日前から張られていた。四月十六日頃、岐阜の織田信孝が勝家に呼応して挙兵、秀吉は包囲中の長浜から美濃大垣へ自ら出陣する。その隙を狙って 四月二十日、勝家方の先鋒 佐久間盛政が大岩山砦の中川清秀の陣を急襲、清秀を討ち取って賤ヶ岳近くまで進出した。報を受けた秀吉は 四月二十日夜、大垣から戦場まで約52キロを五時間で取って返す ──いわゆる 「美濃大返し」。中国大返しと並ぶ、戦国期 屈指の高速機動である。
翌 四月二十一日 早朝、賤ヶ岳本戦が始まる。激戦の最中、勝家本軍左翼の 茂山 に布陣していた前田利家・利長父子が突如として戦線を離脱した──秀吉時代の盟友への友誼か、勝てぬ戦と見ての打算か、議論は今も続く。この離脱で柴田陣の側面が崩れ、佐久間盛政隊も孤立、勝家本隊もわずか3,000程度まで損耗した。秀吉子飼いの若武者 福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・片桐且元・平野長泰・糟屋武則 が追撃戦で武功を立て、後の 賤ヶ岳七本槍 (実際は桜井左吉・石河兵助を加えた九本槍だが、語呂で七が定着) として日本史に刻まれる。勝家は越前 北ノ庄城 へ退き、四月二十四日、妻 お市の方 (信長の妹、長政の遺後) と共に天守に火を放ち自刃。長政の遺した三姉妹 (茶々・初・江) は再び救出され、秀吉に引き取られる──十年前の小谷落城に続く、二度目の救出であった。
賤ヶ岳の勝利で織田家中の覇権が秀吉に確定する。同年九月一日、秀吉は 大坂石山本願寺跡地 に巨大城郭の築城を開始した。縄張りは 黒田官兵衛、普請総奉行は秀長。本丸石垣 (九月一日着工)、天守台 (十一月完成)、本丸御殿 (天正12年7月) と猛速度で進み、わずか三年で 五層八階・黒漆塗りに金箔の鯱と装飾を施した秀吉天守 が完成した。城の総面積は内堀外堀含めて現代の大阪市中央区の四分の一に達したと言われ、当時としては前代未聞の規模であった。秀吉が 都市プロデュース能力 を全実力で発揮し、清洲時代から温めてきた構想を石と漆と金で実体化した瞬間である。
天正十二年 (1584) 三月〜十一月、徳川家康・織田信雄連合軍と 小牧・長久手の戦い。長久手の局地戦では家康が圧勝し、池田恒興・森長可を討ち取る。だが秀吉は戦場で家康に勝てないことを瞬時に見抜き、政治戦に切り替え織田信雄を孤立させて和睦に持ち込む。家康は本拠地・三河を残したまま戦線を解いた──軍事の天才を、政治で封じる。秀吉と家康、後年の関係を予言する一手であった。
天正十三年 (1585) 七月十一日、秀吉は 関白 に就任する。前年に近衛信輔と二条昭実の関白職争いが起こり、両者の調停役として近衛家の 猶子 (養子の一形態) に入り、藤原姓を称して関白宣下を受けた。藤原氏 五摂家以外から関白が出るのは平安以来 例なき事態、ましてや農民出身の武家は前代未聞である。財政逼迫の朝廷は秀吉の経済支援と引き換えに「将軍ではなく公家最高位」での武家政権を承認した。江戸幕府が将軍職を基盤としたのとは異なる、秀吉独自の権威構築であった。同じ年、四国征伐で 長宗我部元親 を降伏させ土佐一国に減封。翌天正十四年 (1586) 九月九日、後陽成天皇から新姓 豊臣 を賜り、同年十二月十九日に 太政大臣 に任じられる。木下・羽柴・藤原・豊臣 ── 四つの姓を使い分けた男は、ここでようやく「豊臣太閤」の最終形へ辿り着いた。
天正十五年 (1587) 五月、九州征伐で 島津義久 を降伏させ、戦乱で荒廃した 博多 を再興。バテレン追放令を発布、京での聚楽第造営に着手する。天正十六年 (1588) 七月八日、刀狩令 三ヶ条を布告。「百姓は刀・脇差・弓・槍・鉄砲を所持してはならぬ」「没収した武器は 方広寺大仏 の釘・鎹に転用する」「百姓は農具のみ持ちて耕作に励め」── 表向きは仏のための施しを装い、実質は 兵農分離 の制度化であった。同年から本格化した 太閤検地 (1582年山城国から開始、1598年没年まで継続) と組み合わせ、「一地一作人」原則の徹底、京枡による石高制の全国統一を成し遂げる。中世的な荘園公領制は終止符を打たれ、武士・農民・土地の関係が「主君が家臣に石高を給付し、家臣が農民から年貢を取る」近世大名統治の標準型に整理された ── これが江戸幕藩体制の基礎構造として三百年使われ続けることになる。
天正十八年 (1590) 四月〜七月、小田原征伐。関東二百四十万石の北条氏直・氏政を、二十二万の大軍で囲んだ。約3か月の包囲 (4月3日〜7月5日) ののち七月五日 北条降伏、氏直は高野山追放、氏政・氏照は切腹。続く奥州仕置で伊達政宗を屈服、九月一日 全国統一を完成。秀吉53歳、信長が「天下布武」を掲げてから二十三年であった。同じ夏、戦後処理の場で家康に「関東への国替え」を打診──表向きは恩賞だが、実質は家康を畿内から二百五十万石付きで遠ざける政治的判断。家康はこれを受け、八月一日 江戸に入府する。十二年後 江戸幕府の本拠となる土地が、秀吉の采配で家康に与えられた皮肉──歴史はここで再び結び目を作っていた。
天下統一完成と同じ年、長子 鶴松 誕生 (1589)、淀殿との初の実子。だが翌天正十九年 (1591) 一月二十二日、最大の調整役 豊臣秀長 が大和郡山城で病没 (享年52)、二月二十八日 千利休 切腹、八月五日 鶴松わずか三歳で早世──三つの死が立て続けに秀吉を襲った。秀長は 「兄を諌められる唯一の人物」、利休は 「茶の湯を通じて秀吉に対等な精神を保ち続けた人物」、鶴松は 「血を継ぐ未来そのもの」。三本の柱を半年で失った秀吉の意思決定は、この時から目に見えて荒くなっていく。「秀長があと十年生きていれば豊臣は滅びなかった」──後世の歴史家が繰り返す悔いは、ここから始まる。
嗣子を失った秀吉は、姉の子 豊臣秀次 を養嗣子に迎え、天正十九年十二月 関白を譲って 太閤 を号する。だが文禄二年 (1593) 八月、淀殿に 秀頼 が誕生すると、後継問題は一気に複雑化した。文禄四年 (1595) 七月十五日、秀次は 高野山 青巌寺 で切腹、八月二日 妻妾・侍女・幼児ら30余人が三条河原で公開処刑された。罪状は謀反だが、背景は秀頼誕生による後継整理・蒲生氏郷遺領をめぐる対立・三成ら五奉行による讒言など 諸説あり、いずれも一次史料の裏付けが弱く今も論争中である。豊臣政権の権力構造は、この一族粛清で取り返しがつかぬほど傷ついた。
天正19年 (1591) 八月、秀吉は 「唐入り」 (明国征服) を諸大名に宣告。同年十月から肥前国名護屋に約八か月の突貫工事で巨大本陣城を築き、文禄元年 (1592) 三月、約15万8千の渡海兵力で 朝鮮出兵 (文禄の役) を開始する。小西行長 ・加藤清正 率いる先発が四月十二日 釜山上陸、五月三日 漢城 (現ソウル) 制圧、六月十五日 平壌占領──進撃速度は鉄砲と兵站の質で朝鮮軍を圧倒した。だが翌1593年一月、明の援軍 李如松 が平壌奪回、続く 碧蹄館の戦い で日本軍が辛勝するも、補給線が伸びすぎ、海上では 李舜臣 の亀甲船に水軍が次々に撃破される。1593年四月以降は朝鮮南部に押し戻されて膠着、文禄五年 (1596) に一旦和議。
慶長二年 (1597) 二月、秀吉は明使節の文書改竄に激怒し、約14万で再度の 慶長の役 発動。今度は南部沿岸の倭城群に拠った長期戦となり、加藤清正の 蔚山籠城戦 (1597年12月〜1598年1月、雪の中の絶望的籠城)、九州の鬼島津 義弘の 泗川の戦い (1598年10月、日本軍6千で明朝3万を撃破) と局地戦は善戦するが、戦線拡大は果たせず日本国内の疲弊だけが深まっていった。慶長三年 (1598) 八月十八日 秀吉病没 (1598年9月18日)、五大老は朝鮮駐留軍の撤退を即決。撤退戦の最終局面 露梁海戦 (1598年12月16日) で李舜臣は流れ弾に倒れて戦死、日本軍も四割近い損害を出しながら釜山から撤収する。「行きは10万、帰りは6万」 と言われた朝鮮出兵は、勝者なき戦争として戦国期最大の負債を後世に残した。
最晩年、慶長三年 (1598) 三月十五日、秀吉は伏見の南郊 醍醐寺三宝院 裏の山麓に北政所・淀殿・秀頼・諸大名の女房衆 約1,300人を招き、生涯最大の花見の宴を催した。境内には畿内から運ばせた 700本の桜 が植えられ、三宝院の建物・庭園も新造、警護の武士まで含めれば数千人が動員される国家規模の宴であった。「醍醐の花見」 ── 万感の終幕装置だった。だがこの宴を主催した時、秀吉はすでに体調を崩しており、五ヶ月後の八月十八日、伏見城において六十二歳で病没する。
「露と落ち、露と消えにし、わが身かな ── 浪速のことも、夢のまた夢」。辞世の句が、一代で築き、一代で霧散する豊臣家の運命を、本人もすでに予感していたことを伝えている。最後の言葉は「秀頼のこと、頼み申し候」── 徳川家康 ら五大老と石田三成ら五奉行に何度も同じ言葉を繰り返し、しかし託された側は、すでにそれぞれの野心を温めていた。秀頼わずか六歳。豊臣の天下は、ここで終わりへの坂を転がり始める。
終章
露と落ち、露と消えにし
慶長三年 (1598) 八月十八日、伏見城にて秀吉病没。後事を石田三成ら五奉行と 徳川家康 ら五大老に託すも、託された側は既にそれぞれの野心を温めていた。秀頼わずか六歳。
わずか二年後の慶長五年 (1600) 九月、関ヶ原の戦いで家康が東軍を率いて石田三成を撃破。秀吉が組み立てた豊臣体制は、二年で骨抜きにされた。
慶長十九〜二十年 (1614-1615) の大坂冬の陣・夏の陣で、家康は秀頼・淀殿らを大坂城に追い詰め、豊臣家を滅亡させる。秀吉の死から十七年、ねね (北政所) は出家して高台院を名乗り、寛永元年 (1624) 七十六歳で天寿を全うした。
一代で天下を取り、一代で消える。秀吉ほど鮮やかにこの構図を生きた者は、日本史に他にいない。中村の足軽の子が立てた金色の天守は、今も大坂の地に残る ── 形を変えながら、夢の跡として。
登場人物録
太閤の周りに立った者たち
百姓の子から太閤へ──六十二年の生涯を支え、競い、利用し、命を捧げ、生き延びた十七人。彼らの像を通してこそ、豊臣秀吉という人物の輪郭は最もよく見える。
戦国を統一した天下人。関白・太政大臣・太閤
豊臣秀吉 (羽柴秀吉、木下藤吉郎)
とよとみ ひでよし
1537-1598
詳しく見る →尾張の戦国大名。秀吉の主君、天下布武の主導者
織田信長
おだ のぶなが
1534-1582
詳しく見る →秀吉の異父弟。大和大納言、豊臣政権の調整役
豊臣秀長 (羽柴秀長)
とよとみ ひでなが
1540-1591
詳しく見る →豊臣秀吉の正室。後年は出家し豊臣家の最後を看取る
ねね (北政所、高台院)
ねね / きたのまんどころ
1548-1624
詳しく見る →秀吉の清洲時代からの盟友。加賀百万石の祖、五大老の一人
前田利家
まえだ としいえ
1538-1599
詳しく見る →秀吉の軍師。「両兵衛」と並び称された美濃の天才
竹中半兵衛 (重治)
たけなか はんべえ / しげはる
1544-1579
詳しく見る →秀吉の軍師。中国大返しの立役者
黒田官兵衛 (孝高)
くろだ かんべえ / よしたか
1546-1604
詳しく見る →近江北部の戦国大名。信長の妹婿にして裏切り者
浅井長政
あざい ながまさ
1545-1573
詳しく見る →信長家臣の重臣。本能寺の変の謀反人
明智光秀
あけち みつひで
1528-1582
詳しく見る →織田家筆頭家老。秀吉の最大のライバル
柴田勝家
しばた かついえ
1522?-1583
詳しく見る →備中高松城主。秀吉に「武士の鏡」と称された切腹の作法
清水宗治
しみず むねはる
1537-1582
詳しく見る →茶聖。秀吉の茶頭にして政治顧問、後に賜死
千利休 (宗易)
せんの りきゅう
1522-1591
詳しく見る →秀吉子飼いの武将。賤ヶ岳七本槍、朝鮮出兵の主力、肥後熊本城主
加藤清正
かとう きよまさ
1562-1611
詳しく見る →秀吉の姉の子。第二代関白、後に切腹
豊臣秀次
とよとみ ひでつぐ
1568-1595
詳しく見る →豊臣政権の五奉行筆頭。関ヶ原西軍の首魁
石田三成
いしだ みつなり
1560-1600
詳しく見る →浅井長政の長女、秀吉の側室、秀頼の生母
茶々 (淀殿、淀の方)
ちゃちゃ / よどどの
1569-1615
詳しく見る →三河の戦国大名。秀吉死後の覇者、江戸幕府初代将軍
徳川家康
とくがわ いえやす
1543-1616
詳しく見る →詳細年表
豊臣秀吉、六十二年の軌跡
天文六年の中村から、慶長三年の伏見まで。日吉丸と呼ばれた百姓の子が太閤にまで上り詰める六十二年を、時系列で辿る。
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1537-03-17 天文六年 二月六日
尾張中村に誕生
尾張国愛知郡中村郷の足軽 木下弥右衛門の嫡男として生まれる。幼名 日吉丸。
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1554 天文二十三年
清洲城で織田信長に仕官
十八歳で草履取りとして仕える。藤吉郎と名乗る。
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1561 永禄四年
ねねと結婚
浅野長勝の養女 ねねと結婚、後の北政所。
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1567 永禄十年
稲葉山城攻略 (美濃攻略完成)
美濃三人衆の調略に成功、信長は岐阜と命名し「天下布武」の印章を用い始める。
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1570-04 元亀元年 四月
金ヶ崎の退き口
浅井長政の裏切りで信長が窮地に。藤吉郎は明智光秀・摂津守護 池田勝正と共に殿軍を担い、信長を救う (近年は三将協同説が有力)。出世の決定的転機。
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1573-08 天正元年 八月
小谷城落城、長浜城主に
浅井長政自刃。藤吉郎は北近江三郡 (約十二万石) を拝領、羽柴姓を賜り、今浜を長浜と改名して初の城持ち大名となる。
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1577 天正五年
中国方面軍司令官、姫路城を本拠に
黒田官兵衛から姫路城を譲られ、播磨・因幡・備前の調略を開始。
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1580-01-17 天正八年 正月十七日
三木城落城 (干し殺し)
別所長治が城兵助命を条件に自刃。秀吉の兵糧攻めが完成形に。
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1581-10-25 天正九年 十月二十五日
鳥取城落城 (渇え殺し)
吉川経家自刃、享年三十五。秀吉「武士の鏡」と弔う。
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1582-06-09 天正十年 五月十九日頃
備中高松城 水攻め
全長およそ三キロ・高さ約七メートルの堤防を十二日で築き (実長については近年再検討の説もあり)、足守川の水を引き込んで城を水中の孤島に変える。毛利輝元の援軍と対陣のまま、和議交渉に入る。
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1582-06-21 天正十年 六月二日
本能寺の変
明智光秀が信長を急襲、信長自刃。秀吉のもとへは翌三日深夜、密書が到着。
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1582-06-25 天正十年 六月六日
中国大返し 開始
毛利と和睦、清水宗治切腹。姫路へ向け出陣。備中高松から山崎まで全行程およそ230キロを十日で踏破する、戦国最大の強行軍となった (備中高松→姫路 約92km、姫路→山崎 約108km)。
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1582-07-02 天正十年 六月十三日
山崎の戦い
天王山の戦いで光秀軍を撃破。十四日深夜、光秀は山科 小栗栖で土民の竹槍に倒れ、三日天下が終わる。
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1582-07-16 天正十年 六月二十七日
清洲会議
織田家後継問題で三法師擁立、秀吉が織田家中の主導権を握る。
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1583-04 天正十一年 四月
賤ヶ岳の戦い
柴田勝家を破り、織田家中の覇権を確立。賤ヶ岳七本槍。同年 大坂城築城開始。
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1584 天正十二年
小牧・長久手の戦い
徳川家康・織田信雄連合軍と対戦。戦術的には家康の勝、政治的には秀吉が信雄を屈服させ家康を孤立させる。
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1585-07 天正十三年 七月
関白に就任
近衛家の養子に入り関白に。同年 四国征伐で長宗我部元親降伏。
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1586 天正十四年
太政大臣、豊臣姓を賜る
後陽成天皇から豊臣姓を授けられ「太閤」となる素地を整える。
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1587 天正十五年
九州征伐、博多再興
島津義久を降伏させ、戦乱で荒廃した博多を再建。バテレン追放令を発布。
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1590-08 天正十八年 七月
小田原征伐、天下統一
北条氏滅亡、奥州仕置を経て全国統一を完成。秀吉53歳。
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1591-04-21 天正十九年 二月二十八日
千利休、京屋敷にて切腹
茶の湯の師 千利休に切腹を命じる。表向きの罪状は大徳寺山門の木像安置と茶器の高値売買だが、真因は三成ら吏僚派の讒言・娘の側室拒否・朝鮮出兵への異議など 諸説あり。同年 嫡子 鶴松が三歳で早世し、秀吉は甥の秀次を養嗣子に迎える。
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1592-04 文禄元年 四月
文禄の役 (朝鮮出兵)
肥前 名護屋城を本陣に、十五万八千の兵で朝鮮へ。釜山上陸、漢城占領。
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1593 文禄二年
秀頼誕生
淀殿との間に秀頼誕生。後継問題が複雑化、養嗣子 秀次との対立が始まる。
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1595-08-20 文禄四年 七月十五日
豊臣秀次、高野山にて切腹
関白 秀次が高野山 青巌寺で切腹、一族・侍女ら30余人が三条河原で公開処刑される。背景は秀頼誕生による後継問題・蒲生氏郷遺領をめぐる対立・三成ら五奉行による讒言など 諸説あり、いずれも一次史料の裏付けが弱く今も論争中である。豊臣政権の権力構造はこの事件で深く傷ついた。
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1597 慶長二年
慶長の役 (第二次朝鮮出兵)
再度の朝鮮出兵。日明朝の三方が泥沼化、秀吉の権威も損耗していく。
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1598-04-20 慶長三年 三月十五日
醍醐の花見
秀吉が醍醐寺三宝院裏の山麓に北政所・淀殿・諸大名の女房衆ら約1,300人を招き、最晩年最大の花見の宴を催す。境内には700本の桜が植えられ、三宝院の庭園も新造された。これが秀吉の事実上の最後の大舞台となる。
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1598-09-18 慶長三年 八月十八日
伏見城にて死去
享年六十二。「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢」。朝鮮駐留軍は撤退、家康ら五大老に後事を託すが、政権の崩壊は時間の問題となる。
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1600-10-21 慶長五年 九月十五日
関ヶ原の戦い
徳川家康率いる東軍が石田三成の西軍を撃破。豊臣体制は事実上、終焉。
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1615-06-04 慶長二十年 五月八日
大坂夏の陣、豊臣家滅亡
大坂城炎上、秀頼・淀殿自刃。秀吉の死から十七年で豊臣家は地上から消えた。