ファウンダー絵本だいさんわ — 2026ワールドカップシリーズ
新しい時代の扉
久保建英 ─ サッカーが誰よりも好きな、川崎の少年
S C R O L L東京のすぐとなりで
地図を、ひらいてみよう。
ユーラシア大陸の東のはて、太平洋に細長く浮かぶ島国。その大きな首都東京から、私鉄に乗って南西へおおよそ30分。
そこに、神奈川県川崎市麻生区という、ごく普通の住宅街がある。坂と階段が多く、桜の並木と、低い屋根の家と、小さな公園が、ぽつぽつと連なる町。
辺境の島ではない。むしろ、世界でいちばん人口が密集している大都市圏の、ど真ん中である。
そんな、ありふれた郊外の町から、のちに2度海を渡ることになる男の子が、生まれた。
2001年6月4日、川崎
2001年6月4日、神奈川県川崎市麻生区。
ある初夏のあたたかい月曜日、その町の住宅街で、ひとりの男の子が生まれた。父も、母も、特別な人ではなかった。父はかつてサッカーをやっていた人で、母はごく普通の家庭の人だった。
6年ののち、2007年9月2日には、弟の久保瑛史も生まれる。のちにこの弟も、兄と同じくサッカーボールを蹴って暮らす人になる。
兄は、建英(たけふさ)、と名づけられた。
父さんと、ボール
父は、息子がまだようやく歩けるようになった頃から、毎朝のように、家の近くの小さな公園へ連れていったという。
そこで、ふたりはボールを蹴った。雨の日も、風の日も。ときには、靴を脱いで、はだしで蹴ることもあったと、のちに父は1冊の本のなかで書き残している。
強くなる、というよりも、ボールと友だちになる、ような時間だった。
やがて少年は、近くの小さな少年団のドアを叩く。ふつうの街のクラブだった。
誰よりも、長く蹴った
朝の公園でのボール蹴りが終わると、保育園、そして学校。
学校から帰れば、ランドセルを玄関に放り出して、すぐに公園へ駆け出す。日が暮れて、街灯がともっても、なかなか帰ろうとしない。
夕食を終えれば、家の廊下で、リフティング。寝る前に、また1回蹴る。
彼は、ふつうの子どもよりも、ふつうのサッカー少年よりも、ずっと長く、ボールといっしょにいた。
やがて周りの大人たちは、彼を「天才」と呼ぶようになる。けれど本人は、その呼び方を好まなかった。後年も彼は、何度も同じように答えている——「自分は天才じゃない。ただ誰よりもたくさん練習したから今がある」という趣旨で。
8歳の、バルサ・キャンプ
2009年、夏。
横浜で、FCバルセロナ・サッカー・キャンプという短い合宿がひらかれた。スペインの遠い名門クラブが、その夏だけ、日本の子どもたちに門を開いたのである。
そこに、8歳の小さな少年が、麻生区から参加していた。
キャンプの最終日。バルサ側のコーチたちは、その小柄で、左利きで、よく走る、よくドリブルする少年に、MVPを与えた。
ただし、8歳の彼は、まだすぐには海をこえられない。バルサの扉が完全に開くまで、まだ2年。彼は、地元川崎で、ボールを蹴り続けることになる。
600人中、3人
同じ2009年の11月。地元のJリーグクラブ、川崎フロンターレが、下部組織のセレクションを開いた。
応募してきた小学校2・3年生は、数百人。会場の人工芝のうえで、子どもたちは順番にボールを蹴り、走り、勝負した。
翌春からフロンターレU-10に入る権利を勝ち取ったのは、そのなかのほんの数人だけだった。
そのひとりに、彼が、いた。
2010年4月、彼は川崎フロンターレU-10に正式入団した。ここから、バルサへの道は、また一歩、形を変えて動き出す。
10歳、海をこえて
2010年、川崎フロンターレU-10に入った9歳の彼は、ベルギーで開かれたスクール選抜の大会に、FCバルセロナスクール選抜のひとりとして招かれた。
そこでも、彼は大会MVPを獲った。
バルセロナ側のコーチが、強く推した。「この子を、入団テストへ。」
2011年4月。9歳と10ヶ月の彼は、バルセロナで3週間にわたる入団テストを受けた。
結果——日本人としてはじめて、FCバルセロナの下部組織ラ・マシアへの入団資格を勝ち取った。
2011年8月。10歳と2ヶ月。彼は家族と、海をこえた。
川崎の家から、バルセロナの寮まで、空路で約1万1000キロ。
地球の、ほとんど反対側だった。
そして、子どもとしてただひとり、ラ・マシアの門をくぐった。
公式リリース
2011年8月7日。地元のJクラブ川崎フロンターレが、当時のおしらせを公式サイトに載せている。
10歳の彼が、海をこえることを、育ててくれたクラブの言葉で、ふり返ってみよう。
ラ・マシアは、メッシも、シャビも、イニエスタも、ピケも育った名門の寮だった。
そこで小柄な10歳は、すぐに同世代の中心になった。
2012-13シーズン、11歳のアレビン期。彼はリーグで30試合74ゴールを叩き込み、得点王になる。
2013-14シーズンの地中海カップU-12では、大会得点王とMVPを、ふたつ同時に抱えた。
日本のサッカーファンが、彼を「日本のメッシ」と呼ぶようになる。
ただし、本人はその呼び方を好まなかった。自分はメッシではなく、自分は自分であるという趣旨を、後年何度も繰り返している。
強い太陽。乾いた風。カタルーニャの言葉と、スペイン語と、英語と、日本語が、寮の食堂で飛び交っていた。
学校と寮の、過酷な3年
10歳でバルセロナに渡った少年は、ラ・マシアの寮に暮らし、地元の学校に通った。
学校にも、寮にも、個性の強い子たちが、大勢いた。スペイン語は、まだうまく話せない。体は、ほかの子よりずっと小さい。顔も、ちがう。
彼は、こう思っていたという——「ちょっとでも舐められたら、終わりだ」。後年、本人が取材で、はっきり、そう語っている。
「体格の大きい子に、殴られたりとか…… あまり言えないですけど、すごく過酷な環境でした。」そう、静かに振り返っている。
けれど彼は、逃げなかった。小っちゃい体で、埋もれないように、負けないように、自分の場所は自分で守った。
相手が誰であっても、はっきりと自分の意見を言う——後年周りが口をそろえて語る彼の姿勢の種は、おそらくこの学校と寮の3年で、すでに深く根を下ろしていた。
ラ・マシアに所属していた小学生時代の久保。FCバルセロナのユニフォームで来日した大会のダイジェスト。
2014年4月の紙きれ
2014年4月2日、スイス。FIFA懲戒委員会の1枚の紙が、世界へ出された。
規定第19条違反。
FCバルセロナは、18歳未満の選手を、外国から規定に反した形で何人も寮に入れていた、と認定された。
罰金、45万スイス・フラン。クラブには、2度の移籍ウィンドウで新規補強の禁止。
対象となった少年は、2009年から2013年のあいだに登録された10名。
そのなかに、川崎から来た小さな少年も、いた。
「ぼくは、サッカーが好きなだけなのに。」のちに、彼はそう語っている。
「18歳未満では、他の国でプレーすることが許されない。今でも、その理由がぼくにはよくわからない。」
2014-15シーズンの頭から、彼はラ・マシアの公式戦に出られなくなった。
そして、2015年3月。13歳の少年は、ふたたび海を渡って、川崎の家へ帰ってきた。
ふたたび日本へ
2015年、春。
川崎の家の小さな机に、13歳の少年は、また戻ってきた。
けれど、この帰国は、彼にとって本意ではなかった。のちに、彼は、こう振り返っている——「最初はあんまり練習とかも行きたくなくて、結構辛い時期もありました。」
海のむこうで、ラ・マシアの寮で、ボールに夢中だったあの日々。それが、1枚の紙きれで終わった。13歳の心は、すぐには切り替えられなかった。
新しい所属先は、地元川崎のフロンターレではなく、東京を本拠地とするFC東京。その下部組織U-15「むさし」だった。
そこで、彼を支えたのは、仲間たちだった。「むさしに入って、そこで皆が仲良くしてくれて、飛び級でユースに上がり、ユースの皆も仲良くしてくれた。そのあとトップチームに上がって、そこでも皆に助けてもらって、今の自分がある。」のちに、彼は、4年と2ヶ月のFC東京の日々を、そう語っている。
翌2016年、彼はU-15からU-18へ、ひとつ飛び級で昇格した。14歳が、16歳・17歳と同じピッチでボールを蹴った。
下部組織での日々は、順風満帆ではなかった。試合に出られない日が、ときどきあった。そんな日、彼は当時のコーチのもとに真っすぐやってきて、食い下がった——「なぜ、自分は出られなかったのか」。「結局、なんだかんだ1時間くらい話しました」と、そのコーチはのちに振り返っている。「誰にも負けたくない。絶対にプロになる、という意思の強さが、建英にはありました。」
ラ・マシアで心に刻んだ「舐められたら終わりだ」は、海を渡って、日本のグラウンドでも、同じように燃えていた。
「ヨーロッパですこし通用した子」だと、噂はある。けれど、まだJリーグの大人たちの世界とは、はっきりとした距離があった。
彼は、その距離を、1歩ずつ縮めていくしかなかった。
15歳5ヶ月、Jデビュー
2016年11月5日、長野。J3第28節、AC長野パルセイロ戦。
後半開始のホイッスルとともに、ピッチに走り出てきたのは、FC東京U-23の15歳と5ヶ月1日の小柄な選手だった。
Jリーグ史上、最年少出場記録の更新だった。それまでの記録、東京ヴェルディの森本貴幸の15歳10ヶ月10日を、5ヶ月以上縮めた。
翌2017年4月15日、J3第5節、セレッソ大阪U-23戦。15歳と10ヶ月11日の少年は、こんどはJリーグ最年少得点の記録を書き換える。
2017年11月26日には、サンフレッチェ広島戦でJ1デビュー。16歳と5ヶ月22日。
数字は、彼の前へ前へと、開いていった。
Jリーグ史上最年少出場。後半開始から、ピッチに走り出た小柄な15歳のプレー集と、試合後インタビュー。
横浜F・マリノス
2018年8月16日。FC東京は、彼を横浜F・マリノスへ、シーズン終了までの期限付き移籍へ送り出す。
FC東京で、自分がトップで試合に出るための時間が、まだじゅうぶんには取れなかった。
「苦渋の決断ではありましたが、自分の決断に誇りを持って」——本人は、そう語っている。
2018年8月25日、ヴィッセル神戸戦の後半。彼は左足をふりぬいた。
ハーフボレー。J1初ゴール。
横浜での半シーズン、5試合1ゴール。
2019年1月、彼はFC東京へ戻ってきた。
戻ってきた彼は、もう、ベンチの端にはいなかった。
イニエスタを擁する神戸を相手に、移籍4試合目で久保がJ1初ゴール。J1歴代2位の最年少得点だった。
2019年、変わった半年
2019年1月、沖縄キャンプ初日。FC東京の練習場に現れた17歳の練習態度は、横浜へ出る前とはちがっていた。守備の走り、運動量、フィジカルの強さ——前年までの「ボールを持ってはなさない17歳」では、もうなかった。
2月23日、開幕戦。相手は地元川崎フロンターレ。FC東京の長谷川健太監督は、17歳9ヶ月の彼をスタメンに抜擢する。クラブ史上3番目の若さでの開幕戦先発だった。
試合後、監督はこう言った——「ビックリするほど変わった。ヨーロッパに行く前の堂安(律)のレベルまで来ている。」
長谷川監督は、もうひとつ、当時の彼の姿勢にも触れていた。横浜への期限つき移籍を決めた時期に、守備面の課題なども話し合った——「物分かりのいい子なので消化して。自分の意見も言える子だった」と、のちに振り返っている。17歳の彼は、監督の前でも、はっきり自分の言葉を持っていた。
5月12日、ジュビロ磐田戦で左足ボレーでFC東京でのJ1リーグ戦初得点。6月1日、大分トリニータ戦では2ゴール。チームのJ1首位に、17歳の左利きが、押しも押されもしない中心選手として、立っていた。
横浜から戻った半年で、彼は「飛び級で出てきた早熟の子」から、「Jのトッププレーヤー」へ、輪郭を書き換えていた。
6年越しの、約束
Jのトッププレーヤーへ。そして2019年5月、彼のもとに、もうひとつの大きな知らせが届く。17歳での、A代表初招集だった。
実はこの招集には、6年前にさかのぼる、ひとつの約束があった。
時計の針を、少しだけ、戻してみよう。
2013年、11歳になっていた彼が、ラ・マシアの合間を縫って日本で自主トレを行った日があった。
そこに、当時イタリアの強豪インテル・ミラノで戦っていた日本代表の左サイドバック・長友佑都が、顔を出した。サッカー解説者の中西哲生氏が、ふたりを引き合わせたのだった。
並んで撮った1枚の写真には、11歳の小さな彼と、大人の長友が、ほとんど同じ身長で写っている。
「いつか、代表で一緒にプレーしよう。」長友は、そのとき、そう約束したという。子どもの頃の約束、と思っていたかもしれない。
それから、およそ6年。
2019年5月23日。約束の日が、訪れた。17歳と11ヶ月の彼の名前は、日本代表のメンバー表の上にあった。
長友は、6年前のあの1枚をツイッターに載せて、こうつぶやいた——「約6年前、当時小学生だった建英と一緒にトレーニングした時、先輩ヅラしていつか代表で一緒にプレーしようと言ったけど、まさかこんなに早く実現するとは。」
2019年6月9日。招集された彼は、対エルサルバドル戦の後半23分からピッチに立った。18歳と5日。日本代表史上2番目に若い、A代表デビューだった。
11歳のあの日の約束は、ピッチに立つ、約束に変わった。
回り道、それとも近道か
ここで、いったん、立ち止まって、みたい。
もし、13歳のあの春、海を引き返さずに、そのままバルセロナの寮に残れていたら——彼のキャリアは、もっと、まっすぐで、もっと、速かったのだろうか。
そう考える人は、今も、少なくない。「あの帰国は、悲劇だった」と、言う人もいる。
けれど、もうひとつの道は、もう、たどれない。人生の道は、いつも、ひとつしか選べない。
あの春、川崎の家に戻った13歳が、ここまでで積み上げたものを、ちょっと、並べてみる。
15歳5ヶ月で、Jリーグ最年少出場。15歳10ヶ月で、J3最年少得点。16歳でJ1デビュー。18歳までに、FC東京、横浜FM、FC東京と、3つのクラブで、J3、J1、ルヴァン杯、天皇杯——約70試合ぶんのプロの試合に立っていた。
同じ時期、ヨーロッパの同年代の多くは、まだ下部組織の寮で、練習試合とユース大会のあいだに立っていた。
そう思うと、13歳の失意の帰国は、ほんとうに「遠回り」だったのだろうか。もしかしたら、別の道からたどった、もうひとつの「近道」だった——そう、振り返ることが、できるかもしれない。
横浜から戻った17歳のプレー集。「日本の至宝」と呼ばれ、A代表に初選出されるまでの半年がここに。
2019年6月14日、マドリード
2019年6月14日。
スペインの首都マドリードのクラブ、レアル・マドリードが、公式に発表した——「東京から、18歳の左利き攻撃的MFを獲得した」。
契約年数、5年。年俸は、現地の新聞によれば、約120万ユーロ。当時のレートで1億5000万円ほどと報じられた。
FCバルセロナも、再び動こうとしていた。けれど今回海を渡った彼の行き先は、白い首都のクラブだった。
海を2度目に渡ろうとする18歳の彼は、もう、まっさらな少年ではなかった。13歳でバルサを退団し、日本へ帰国。FC東京の下部組織からJ3、J1、横浜への移籍と復帰。J3で34試合、J1で24試合、ルヴァン杯と天皇杯を含めれば、約70試合ぶんのプロの経験を、彼は18歳までに積み上げていた。バルサで立ち止まらず、日本で試合に出続けた遠まわりの4年が、ここで効いてくる。
ただし、登録された場所は、トップチームではない。レアル・マドリード・カスティージャ——いわゆるBチームだった。
それでも、いつかトップチームのピッチに立つことを、彼はあきらめなかった。
けれど、その「いつか」は、思ったよりもずっと遠かった。
対戦相手は期限付き移籍先だった横浜F・マリノス。両サポーターへ久保が感謝を述べた、ノーカット挨拶映像。
2019-20シーズン。最初のレンタル先は、地中海の島、マジョルカだった。1年で35試合、4ゴール4アシスト。11月10日のビジャレアル戦では、18歳159日でリーガ初ゴールを決める。
ところが、マジョルカはその年、2部へ落ちた。
2020-21シーズン前半。次のレンタル先は、ビジャレアル。当時の監督は、ウナイ・エメリ。13試合に出たが、ゴールはゼロだった。
「使われない」「先発で出られない」——その日々が、半年続いた。
2021年1月。レンタル先は、ヘタフェへ変わった。マドリード郊外の、激しい走力で残留を戦うクラブだった。
監督ホセ・ボルダラスのもと、彼は18試合に出て、ゴール1。シーズン終盤、ヘタフェの1部残留を決定づける1発を、彼が決めた。
2021-22シーズン。レンタル先は、もういちどマジョルカ。28試合、1ゴール。
海を渡って、20歳の彼は、4つの街を旅し続けた。
誰もが言った——「日本のメッシは、もうちがう。」けれど、彼自身は、まだ諦めていなかった。
東京オリンピック2020
2021年7月。新型コロナで1年延期されていた東京オリンピックが、ようやくひらかれた。
観客はほとんどいない。スタンドは沈黙していた。それでも、ピッチは燃えていた。
7月22日、対南アフリカ戦。後半、彼の1撃がゴールに突き刺さる。1-0。
7月25日、対メキシコ戦。前半、堂安律からのボールを、彼が流し込む。
7月28日、対フランス戦。前半、彼はふたたびゴール。3戦連続得点。
決勝トーナメント1回戦、対ニュージーランド戦はPK戦の末に勝利。
準決勝、対スペイン戦。延長戦の末、0-1。日本は、決勝の手前で、落ちた。
3位決定戦、対メキシコ戦。1-3。
日本は4位。メダルには、ぎりぎり届かなかった。
「悔しい、のひとことしか、出ない。」彼は、ピッチを降りるとき、そう言った。
サン・セバスティアン、青い海のまち
2022年7月19日。
ピレネー山脈のふもと、フランス国境にも近い、北スペインの海辺のまち——サン・セバスティアン。
そのまちのクラブ、レアル・ソシエダが、彼を完全移籍で獲得したと発表した。移籍金は約650万ユーロ、当時のレートで9億円ほど。契約は2027年までの5年。レアル・マドリード側に、将来の移籍金の5割を取る条項と、買い戻しのオプションがついていた。
日本人の選手が、レアル・ソシエダでプレーするのは、これがはじめてだった。
「もう、レンタルじゃない。完全移籍だ。」マジョルカ、ビジャレアル、ヘタフェ、マジョルカ、と4度のレンタル先を渡り歩いた21歳の彼は、ようやく、自分の名前が書かれたロッカーに、3年以上帰る場所を持った。
デビュー戦の1点
2022年8月14日。ラ・リーガ開幕戦。
相手はカディスCF。サン・セバスティアンの海辺のスタジアムアノエタ。
21歳になった彼は、いきなりスタメンに名を呼ばれる。
前半36分、ペナルティエリアの外から、彼は左足を振り抜いた。
ボールはゴールの隅に突き刺さる。デビュー戦で、移籍後初ゴール。
ソシエダはそのまま1-0で勝利。
バルサで追い返され、マジョルカ、ビジャレアル、ヘタフェ、もう一度のマジョルカ。4年、4クラブのレンタルを旅した彼は、ようやく、ここに、
「ぼくのまち」と「ぼくのチーム」を見つけた。
4年、4クラブのレンタルの旅を終えた21歳が、完全移籍初戦で決めた左足の1点。彼が自分のチームを見つけた瞬間。
ぼくのまち、ぼくのチーム
9月18日、第6節RCDエスパニョール戦。
ラ・リーガ通算100試合達成。乾貴士につぐ、日本人2人目の記録だった。
ロッカールームには、引退間際のダビド・シルバがいた。
のちに彼は、シルバとの出会いが、自分を大きく変えたと繰り返し語っている。
2023年1月、アスレティック・ビルバオとのバスクダービー。
シーズン3点目とPK奪取で、彼はその試合のMOMを獲った。
21節、2得点に絡んで2試合連続MOM。
そして、乾貴士につぐ日本人2人目のラ・リーガ通算二桁ゴール。
5月3日、古巣レアル・マドリード戦。彼は後半早々に、白いユニフォームの守備陣のあいだから、左足で1点を押し込んだ。
2022-23シーズン通算、リーグ戦9ゴール4アシスト。キャリアハイの数字だった。
そして、チームを10シーズンぶりのUEFAチャンピオンズリーグ出場へ押し上げた。
シーズン後、彼はチームの年間最優秀選手と、海外紙選定のリーグ年間ベストイレブンに選ばれた。
古巣マドリードを相手に、後半開始早々のゴール。先制お膳立てに幻ミドル、試合に敗れても別格の輝き。
名前を、残す
2023年9月3日、第4節、グラナダCF戦。
彼は1試合2得点。スペインでのキャリアで初の、1試合複数ゴールだった。そしてこの2点目で、彼は、乾貴士が持っていた日本人ラ・リーガ最多ゴール記録を塗り替えた。
9月20日、UEFAチャンピオンズリーグホーム開幕戦、対インテル。彼は72分までピッチに立ち、CLに初めて出場した。
9月のリーグ戦5試合で4ゴール。シーズン序盤、ジュード・ベリンガムらを押さえ、彼は日本人初のラ・リーガ月間最優秀選手(Player of the Month)に選ばれた。
2024年2月12日、ソシエダは彼との契約を2029年まで延長した。
「天才と呼ばれて笑った子」が、「誰よりも長く蹴ってきた子」が、ようやく、自分のチームのユニフォームに自分の名前を、長く残せる場所にたどり着いた。
カタール2022 — ホテルの窓
2022年11月、カタール。
FIFAワールドカップ本大会。グループステージのドイツ戦とスペイン戦——ふたつの大きな試合に、彼は先発で名を呼ばれた。日本代表は、その2試合のどちらにも勝ち、世界を驚かせた。
ドイツ戦の試合直前。ロッカールームで21歳の彼は、ひとりの先輩のもとに歩み寄っている。
36歳の左サイドバック、長友佑都。11歳の自分と並んで写真を撮った、あの長友だった。
「いろいろなことがあって、同じサイドでスタメンを組めて嬉しいです。」彼は、ただそれだけを、短く伝えた。
あの約束から、9年。ふたりは、世界一の舞台の、同じサイドに立っていた。久保は左サイドハーフ、長友は左サイドバック。
ただし、2試合とも、彼は前半で交代した。90分のうち、半分しかピッチにいられなかった。
決勝トーナメント1回戦、対クロアチア戦。その朝、彼は高熱を出していた。39度。
クロアチア戦のピッチに、彼は立てなかった。ドーハのホテルの部屋で、テレビ画面を黙って見つめるしかなかった。
日本はPK戦の末、敗れた。歴史的なベスト8の1歩手前で、大会は終わった。
悔しさは、まだ終わっていなかった。ホテルの窓のむこうに、彼は次の4年を見ていた。
「舐められたら終わり」は、まだ
2025年1月、バレンシアのスタジアム。ウォーミングアップ中の彼に、スタンドの一部から、アジア人を蔑むヤジが浴びせられた。クラブのレアル・ソシエダは、ただちに抗議の声明を出した。スペイン政府の暴力防止委員会は、ヤジを浴びせた観客を特定し、1年間のスタジアム入場禁止と罰金の処分を下した。
2025年2月、レガネスとの試合。試合中、相手選手から人種差別的な暴言が飛んだ。23歳の彼は黙らず、そのまま相手に詰め寄り、イエローカードを受けた。累積で、次節バルセロナ戦の出場停止が確定した。
「黙っていれば、出場停止にはならなかったのに。」そう言う人もいた。
けれど、彼は黙れなかった。
11歳のあの寮で、「舐められたら終わりだ」と心に刻んだ小さな少年は、12年が経った今も、同じように、自分の場所を守っていた。
2025年3月、W杯切符
2025年3月20日、埼玉。
2026年北中米ワールドカップアジア最終予選、対バーレーン戦。
背番号20、23歳。遠回りの末に、彼はここに立っていた。
前半、彼のラストパスを受けた鎌田大地が、GKとの1対1を冷静に流し込んで、日本が先制した。
後半、こんどは自分が、ペナルティエリアの外から左足をふりぬいた。世界が「ゴラッソ」と騒いだ1点。1試合1ゴール1アシスト。
試合終了のホイッスル。日本代表は、世界でいちばん早く、2026年W杯の出場権を手に入れた。
海を2度渡ったあの少年は、もう、日本代表の中心にいた。
先制アシストに続いて、ペナルティエリア外からのゴラッソ。23歳の久保が、日本代表のW杯出場(世界最速)決定を牽引した試合。
数字の塔
ここで、いったん、彼の積み上げた数字を並べてみたい。すべて、2026年5月時点。
Jリーグ最年少出場 ——15歳5ヶ月1日。
Jリーグ最年少得点 ——15歳10ヶ月11日。
2019年6月、18歳でレアル・マドリードへ移籍。
マジョルカ、ビジャレアル、ヘタフェ、マジョルカ。4度のレンタルを、20歳までに経験。
2022年夏、レアル・ソシエダへ完全移籍。日本人として初の同クラブ所属。
2024年2月、契約を2029年まで延長。
ラ・リーガ通算約120試合23ゴール(2025-26シーズン終了時点・国内リーグ戦)。
日本代表通算約50試合7ゴール(2026年5月時点)。
2022年カタールワールドカップ、ドイツ戦・スペイン戦に先発。
2021年東京オリンピック、3戦連続ゴール。
2025年3月、23歳。1ゴール1アシストで、W杯出場決定の立役者に。
2026年4月、コパ・デル・レイ決勝。レアル・ソシエダが、アトレティコ・マドリードをPK戦の末に下し、5年ぶり4回目の優勝。久保にとって、キャリア初のタイトル獲得だった。
海をふたつ、渡った少年
「環境のせいには、絶対したくない。結局、自分がやるか、やらないか。それだけ。」——インタビューで、彼が繰り返し語ってきた言葉だといわれている。
海をふたつ、渡った少年がいた。
1度目の海で、彼はバルセロナの寮の門をくぐり、規定違反の紙きれ1枚で、追い返された。
2度目の海で、彼はマドリードの白い街に入り、4つの街を流れた末に、北の青い海辺のまちで、ようやく自分の居場所を持った。
夢は、止まらない
けれど、彼の夢は、そこで止まっていない。
子どもの頃から、ずっと口にしてきた、たったひとつの夢——
「世界のトッププレイヤーになる」。
同じ年代に生まれた仲間たちのなかには、もう世界のトップで戦い、バロンドールの候補に名を並べる者もいる。
彼自身も、きっと、思い描いていたスピードよりは少し遠まわりの道を、歩いてきたのだろう。
けれど、彼はまだ24歳だ。
24歳から、ようやく花を咲かせて、世界のトッププレイヤーになった選手は、サッカーの歴史のなかに、数えきれないほどいる。
新しい時代の扉
誰よりもサッカーが好きで、誰よりも長くボールを蹴ってきたあの少年が、いま、これまでの全部を背負って、大きな大会へ向かおうとしている。
2026年6月。彼は3度目の海をこえて、北中米ワールドカップの大地に立つ。
この大会が、久保建英のキャリアの扉を、大きく開ける舞台になるのか。それは、まだ、誰にもわからない。
わかっているのは、ひとつだけ——
久保建英の新しい時代の扉が、もうすぐ、開こうとしている。
ここからが、本番だ。 ← ポータルへ戻る