ファウンダー絵本だいさんわ — 2026ワールドカップシリーズ

久保建英 ─ サッカーが誰よりも好きな、川崎の少年

S C R O L L

東京のすぐとなりで

地図を、ひらいてみよう。

ユーラシア大陸の東のはて、太平洋に細長く浮かぶ島国。その大きな首都東京から、私鉄に乗って南西へおおよそ30分。

そこに、神奈川県川崎市麻生区という、ごく普通の住宅街がある。坂と階段が多く、桜の並木と、低い屋根の家と、小さな公園が、ぽつぽつと連なる町。

辺境の島ではない。むしろ、世界でいちばん人口が密集している大都市圏の、ど真ん中である。

そんな、ありふれた郊外の町から、のちに2度海を渡ることになる男の子が、生まれた。

2001年6月4日、川崎

2001年6月4日、神奈川県川崎市麻生区。

ある初夏のあたたかい月曜日、その町の住宅街で、ひとりの男の子が生まれた。父も、母も、特別な人ではなかった。父はかつてサッカーをやっていた人で、母はごく普通の家庭の人だった。

6年ののち、2007年9月2日には、弟の久保瑛史も生まれる。のちにこの弟も、兄と同じくサッカーボールを蹴って暮らす人になる。

兄は、建英(たけふさ)、と名づけられた。

父さんと、ボール

父は、息子がまだようやく歩けるようになった頃から、毎朝のように、家の近くの小さな公園へ連れていったという。

そこで、ふたりはボールを蹴った。雨の日も、風の日も。ときには、靴を脱いで、はだしで蹴ることもあったと、のちに父は1冊の本のなかで書き残している。

強くなる、というよりも、ボールと友だちになる、ような時間だった。

やがて少年は、近くの小さな少年団のドアを叩く。ふつうの街のクラブだった。

誰よりも、長く蹴った

朝の公園でのボール蹴りが終わると、保育園、そして学校。

学校から帰れば、ランドセルを玄関に放り出して、すぐに公園へ駆け出す。日が暮れて、街灯がともっても、なかなか帰ろうとしない。

夕食を終えれば、家の廊下で、リフティング。寝る前に、また1回蹴る。

彼は、ふつうの子どもよりも、ふつうのサッカー少年よりも、ずっと長く、ボールといっしょにいた。

やがて周りの大人たちは、彼を「天才」と呼ぶようになる。けれど本人は、その呼び方を好まなかった。後年も彼は、何度も同じように答えている——「自分は天才じゃない。ただ誰よりもたくさん練習したから今がある」という趣旨で。

8歳の、バルサ・キャンプ

2009年、夏。

横浜で、FCバルセロナ・サッカー・キャンプという短い合宿がひらかれた。スペインの遠い名門クラブが、その夏だけ、日本の子どもたちに門を開いたのである。

そこに、8歳の小さな少年が、麻生区から参加していた。

キャンプの最終日。バルサ側のコーチたちは、その小柄で、左利きで、よく走る、よくドリブルする少年に、MVPを与えた。

ただし、8歳の彼は、まだすぐには海をこえられない。バルサの扉が完全に開くまで、まだ2年。彼は、地元川崎で、ボールを蹴り続けることになる。

600人中、3人

同じ2009年の11月。地元のJリーグクラブ、川崎フロンターレが、下部組織のセレクションを開いた。

応募してきた小学校2・3年生は、数百人。会場の人工芝のうえで、子どもたちは順番にボールを蹴り、走り、勝負した。

翌春からフロンターレU-10に入る権利を勝ち取ったのは、そのなかのほんの数人だけだった。

そのひとりに、彼が、いた。

2010年4月、彼は川崎フロンターレU-10に正式入団した。ここから、バルサへの道は、また一歩、形を変えて動き出す。

10歳、海をこえて

2010年、川崎フロンターレU-10に入った9歳の彼は、ベルギーで開かれたスクール選抜の大会に、FCバルセロナスクール選抜のひとりとして招かれた。

そこでも、彼は大会MVPを獲った。

バルセロナ側のコーチが、強く推した。「この子を、入団テストへ。」

2011年4月。9歳と10ヶ月の彼は、バルセロナで3週間にわたる入団テストを受けた。

結果——日本人としてはじめて、FCバルセロナの下部組織ラ・マシアへの入団資格を勝ち取った。

2011年8月。10歳と2ヶ月。彼は家族と、海をこえた。

川崎の家から、バルセロナの寮まで、空路で約1万1000キロ。

地球の、ほとんど反対側だった。

そして、子どもとしてただひとり、ラ・マシアの門をくぐった。

公式リリース

2011年8月7日。地元のJクラブ川崎フロンターレが、当時のおしらせを公式サイトに載せている。

10歳の彼が、海をこえることを、育ててくれたクラブの言葉で、ふり返ってみよう。

📰 川崎フロンターレ公式リリース・2011年8月7日U-10久保建英、FCバルセロナとの契約について

ラ・マシアは、メッシも、シャビも、イニエスタも、ピケも育った名門の寮だった。

そこで小柄な10歳は、すぐに同世代の中心になった。

2012-13シーズン、11歳のアレビン期。彼はリーグで30試合74ゴールを叩き込み、得点王になる。

2013-14シーズンの地中海カップU-12では、大会得点王とMVPを、ふたつ同時に抱えた。

日本のサッカーファンが、彼を「日本のメッシ」と呼ぶようになる。

ただし、本人はその呼び方を好まなかった。自分はメッシではなく、自分は自分であるという趣旨を、後年何度も繰り返している。

強い太陽。乾いた風。カタルーニャの言葉と、スペイン語と、英語と、日本語が、寮の食堂で飛び交っていた。

学校と寮の、過酷な3年

10歳でバルセロナに渡った少年は、ラ・マシアの寮に暮らし、地元の学校に通った。

学校にも、寮にも、個性の強い子たちが、大勢いた。スペイン語は、まだうまく話せない。体は、ほかの子よりずっと小さい。顔も、ちがう。

彼は、こう思っていたという——「ちょっとでも舐められたら、終わりだ」。後年、本人が取材で、はっきり、そう語っている。

「体格の大きい子に、殴られたりとか…… あまり言えないですけど、すごく過酷な環境でした。」そう、静かに振り返っている。

けれど彼は、逃げなかった。小っちゃい体で、埋もれないように、負けないように、自分の場所は自分で守った。

相手が誰であっても、はっきりと自分の意見を言う——後年周りが口をそろえて語る彼の姿勢の種は、おそらくこの学校と寮の3年で、すでに深く根を下ろしていた。

ARCHIVE FOOTAGE 2013年 / U-12ジュニアサッカーワールドチャレンジ
2013年 / U-12ジュニアサッカーワールドチャレンジ
SOURCE / WOWOW YouTube

ラ・マシアに所属していた小学生時代の久保。FCバルセロナのユニフォームで来日した大会のダイジェスト。

2014年4月の紙きれ

2014年4月2日、スイス。FIFA懲戒委員会の1枚の紙が、世界へ出された。

規定第19条違反。

FCバルセロナは、18歳未満の選手を、外国から規定に反した形で何人も寮に入れていた、と認定された。

罰金、45万スイス・フラン。クラブには、2度の移籍ウィンドウで新規補強の禁止。

対象となった少年は、2009年から2013年のあいだに登録された10名。

そのなかに、川崎から来た小さな少年も、いた。

「ぼくは、サッカーが好きなだけなのに。」のちに、彼はそう語っている。

「18歳未満では、他の国でプレーすることが許されない。今でも、その理由がぼくにはよくわからない。」

2014-15シーズンの頭から、彼はラ・マシアの公式戦に出られなくなった。

そして、2015年3月。13歳の少年は、ふたたび海を渡って、川崎の家へ帰ってきた。

ふたたび日本へ

2015年、春。

川崎の家の小さな机に、13歳の少年は、また戻ってきた。

けれど、この帰国は、彼にとって本意ではなかった。のちに、彼は、こう振り返っている——「最初はあんまり練習とかも行きたくなくて、結構辛い時期もありました。」

海のむこうで、ラ・マシアの寮で、ボールに夢中だったあの日々。それが、1枚の紙きれで終わった。13歳の心は、すぐには切り替えられなかった。

新しい所属先は、地元川崎のフロンターレではなく、東京を本拠地とするFC東京。その下部組織U-15「むさし」だった。

そこで、彼を支えたのは、仲間たちだった。「むさしに入って、そこで皆が仲良くしてくれて、飛び級でユースに上がり、ユースの皆も仲良くしてくれた。そのあとトップチームに上がって、そこでも皆に助けてもらって、今の自分がある。」のちに、彼は、4年と2ヶ月のFC東京の日々を、そう語っている。

翌2016年、彼はU-15からU-18へ、ひとつ飛び級で昇格した。14歳が、16歳・17歳と同じピッチでボールを蹴った。

下部組織での日々は、順風満帆ではなかった。試合に出られない日が、ときどきあった。そんな日、彼は当時のコーチのもとに真っすぐやってきて、食い下がった——「なぜ、自分は出られなかったのか」。「結局、なんだかんだ1時間くらい話しました」と、そのコーチはのちに振り返っている。「誰にも負けたくない。絶対にプロになる、という意思の強さが、建英にはありました。」

ラ・マシアで心に刻んだ「舐められたら終わりだ」は、海を渡って、日本のグラウンドでも、同じように燃えていた。

「ヨーロッパですこし通用した子」だと、噂はある。けれど、まだJリーグの大人たちの世界とは、はっきりとした距離があった。

彼は、その距離を、1歩ずつ縮めていくしかなかった。

15歳5ヶ月、Jデビュー

2016年11月5日、長野。J3第28節、AC長野パルセイロ戦。

後半開始のホイッスルとともに、ピッチに走り出てきたのは、FC東京U-23の15歳と5ヶ月1日の小柄な選手だった。

Jリーグ史上、最年少出場記録の更新だった。それまでの記録、東京ヴェルディの森本貴幸の15歳10ヶ月10日を、5ヶ月以上縮めた。

翌2017年4月15日、J3第5節、セレッソ大阪U-23戦。15歳と10ヶ月11日の少年は、こんどはJリーグ最年少得点の記録を書き換える。

2017年11月26日には、サンフレッチェ広島戦でJ1デビュー。16歳と5ヶ月22日。

数字は、彼の前へ前へと、開いていった。

ARCHIVE FOOTAGE 2016年11月5日 / J3第28節対AC長野パルセイロ(15歳5ヶ月1日)
2016年11月5日 / J3第28節対AC長野パルセイロ(15歳5ヶ月1日)
SOURCE / Jリーグ公式 YouTube

Jリーグ史上最年少出場。後半開始から、ピッチに走り出た小柄な15歳のプレー集と、試合後インタビュー。

横浜F・マリノス

2018年8月16日。FC東京は、彼を横浜F・マリノスへ、シーズン終了までの期限付き移籍へ送り出す。

FC東京で、自分がトップで試合に出るための時間が、まだじゅうぶんには取れなかった。

「苦渋の決断ではありましたが、自分の決断に誇りを持って」——本人は、そう語っている。

2018年8月25日、ヴィッセル神戸戦の後半。彼は左足をふりぬいた。

ハーフボレー。J1初ゴール。

横浜での半シーズン、5試合1ゴール。

2019年1月、彼はFC東京へ戻ってきた。

戻ってきた彼は、もう、ベンチの端にはいなかった。

ARCHIVE FOOTAGE 2018年8月25日 / 第24節対ヴィッセル神戸(左足ハーフボレー)
2018年8月25日 / 第24節対ヴィッセル神戸(左足ハーフボレー)
SOURCE / Jリーグ公式 YouTube

イニエスタを擁する神戸を相手に、移籍4試合目で久保がJ1初ゴール。J1歴代2位の最年少得点だった。

2019年、変わった半年

2019年1月、沖縄キャンプ初日。FC東京の練習場に現れた17歳の練習態度は、横浜へ出る前とはちがっていた。守備の走り、運動量、フィジカルの強さ——前年までの「ボールを持ってはなさない17歳」では、もうなかった。

2月23日、開幕戦。相手は地元川崎フロンターレ。FC東京の長谷川健太監督は、17歳9ヶ月の彼をスタメンに抜擢する。クラブ史上3番目の若さでの開幕戦先発だった。

試合後、監督はこう言った——「ビックリするほど変わった。ヨーロッパに行く前の堂安(律)のレベルまで来ている。」

長谷川監督は、もうひとつ、当時の彼の姿勢にも触れていた。横浜への期限つき移籍を決めた時期に、守備面の課題なども話し合った——「物分かりのいい子なので消化して。自分の意見も言える子だった」と、のちに振り返っている。17歳の彼は、監督の前でも、はっきり自分の言葉を持っていた。

5月12日、ジュビロ磐田戦で左足ボレーでFC東京でのJ1リーグ戦初得点。6月1日、大分トリニータ戦では2ゴール。チームのJ1首位に、17歳の左利きが、押しも押されもしない中心選手として、立っていた。

横浜から戻った半年で、彼は「飛び級で出てきた早熟の子」から、「Jのトッププレーヤー」へ、輪郭を書き換えていた。

6年越しの、約束

Jのトッププレーヤーへ。そして2019年5月、彼のもとに、もうひとつの大きな知らせが届く。17歳での、A代表初招集だった。

実はこの招集には、6年前にさかのぼる、ひとつの約束があった。

時計の針を、少しだけ、戻してみよう。

2013年、11歳になっていた彼が、ラ・マシアの合間を縫って日本で自主トレを行った日があった。

そこに、当時イタリアの強豪インテル・ミラノで戦っていた日本代表の左サイドバック・長友佑都が、顔を出した。サッカー解説者の中西哲生氏が、ふたりを引き合わせたのだった。

並んで撮った1枚の写真には、11歳の小さな彼と、大人の長友が、ほとんど同じ身長で写っている。

「いつか、代表で一緒にプレーしよう。」長友は、そのとき、そう約束したという。子どもの頃の約束、と思っていたかもしれない。

それから、およそ6年。

2019年5月23日。約束の日が、訪れた。17歳と11ヶ月の彼の名前は、日本代表のメンバー表の上にあった。

長友は、6年前のあの1枚をツイッターに載せて、こうつぶやいた——「約6年前、当時小学生だった建英と一緒にトレーニングした時、先輩ヅラしていつか代表で一緒にプレーしようと言ったけど、まさかこんなに早く実現するとは。」

2019年6月9日。招集された彼は、対エルサルバドル戦の後半23分からピッチに立った。18歳と5日。日本代表史上2番目に若い、A代表デビューだった。

11歳のあの日の約束は、ピッチに立つ、約束に変わった。

回り道、それとも近道か

ここで、いったん、立ち止まって、みたい。

もし、13歳のあの春、海を引き返さずに、そのままバルセロナの寮に残れていたら——彼のキャリアは、もっと、まっすぐで、もっと、速かったのだろうか。

そう考える人は、今も、少なくない。「あの帰国は、悲劇だった」と、言う人もいる。

けれど、もうひとつの道は、もう、たどれない。人生の道は、いつも、ひとつしか選べない。

あの春、川崎の家に戻った13歳が、ここまでで積み上げたものを、ちょっと、並べてみる。

15歳5ヶ月で、Jリーグ最年少出場。15歳10ヶ月で、J3最年少得点。16歳でJ1デビュー。18歳までに、FC東京、横浜FM、FC東京と、3つのクラブで、J3、J1、ルヴァン杯、天皇杯——約70試合ぶんのプロの試合に立っていた。

同じ時期、ヨーロッパの同年代の多くは、まだ下部組織の寮で、練習試合とユース大会のあいだに立っていた。

そう思うと、13歳の失意の帰国は、ほんとうに「遠回り」だったのだろうか。もしかしたら、別の道からたどった、もうひとつの「近道」だった——そう、振り返ることが、できるかもしれない。

ARCHIVE FOOTAGE 2019年 / FC東京での半シーズン、初のA代表選出
2019年 / FC東京での半シーズン、初のA代表選出
SOURCE / Jリーグ公式 YouTube

横浜から戻った17歳のプレー集。「日本の至宝」と呼ばれ、A代表に初選出されるまでの半年がここに。

2019年6月14日、マドリード

2019年6月14日。

スペインの首都マドリードのクラブ、レアル・マドリードが、公式に発表した——「東京から、18歳の左利き攻撃的MFを獲得した」。

契約年数、5年。年俸は、現地の新聞によれば、約120万ユーロ。当時のレートで1億5000万円ほどと報じられた。

FCバルセロナも、再び動こうとしていた。けれど今回海を渡った彼の行き先は、白い首都のクラブだった。

海を2度目に渡ろうとする18歳の彼は、もう、まっさらな少年ではなかった。13歳でバルサを退団し、日本へ帰国。FC東京の下部組織からJ3、J1、横浜への移籍と復帰。J3で34試合、J1で24試合、ルヴァン杯と天皇杯を含めれば、約70試合ぶんのプロの経験を、彼は18歳までに積み上げていた。バルサで立ち止まらず、日本で試合に出続けた遠まわりの4年が、ここで効いてくる。

ただし、登録された場所は、トップチームではない。レアル・マドリード・カスティージャ——いわゆるBチームだった。

それでも、いつかトップチームのピッチに立つことを、彼はあきらめなかった。

けれど、その「いつか」は、思ったよりもずっと遠かった。

📰 FC東京公式久保建英選手完全移籍のお知らせ(レアル・マドリードへ)

ARCHIVE FOOTAGE 2019年6月29日 / FC東京壮行セレモニーでの久保の挨拶
2019年6月29日 / FC東京壮行セレモニーでの久保の挨拶
SOURCE / FC東京公式 YouTube

対戦相手は期限付き移籍先だった横浜F・マリノス。両サポーターへ久保が感謝を述べた、ノーカット挨拶映像。

2019-20シーズン。最初のレンタル先は、地中海の島、マジョルカだった。1年で35試合、4ゴール4アシスト。11月10日のビジャレアル戦では、18歳159日でリーガ初ゴールを決める。

ところが、マジョルカはその年、2部へ落ちた。

2020-21シーズン前半。次のレンタル先は、ビジャレアル。当時の監督は、ウナイ・エメリ。13試合に出たが、ゴールはゼロだった。

「使われない」「先発で出られない」——その日々が、半年続いた。

2021年1月。レンタル先は、ヘタフェへ変わった。マドリード郊外の、激しい走力で残留を戦うクラブだった。

監督ホセ・ボルダラスのもと、彼は18試合に出て、ゴール1。シーズン終盤、ヘタフェの1部残留を決定づける1発を、彼が決めた。

2021-22シーズン。レンタル先は、もういちどマジョルカ。28試合、1ゴール。

海を渡って、20歳の彼は、4つの街を旅し続けた。

誰もが言った——「日本のメッシは、もうちがう。」けれど、彼自身は、まだ諦めていなかった。

東京オリンピック2020

2021年7月。新型コロナで1年延期されていた東京オリンピックが、ようやくひらかれた。

観客はほとんどいない。スタンドは沈黙していた。それでも、ピッチは燃えていた。

7月22日、対南アフリカ戦。後半、彼の1撃がゴールに突き刺さる。1-0。

7月25日、対メキシコ戦。前半、堂安律からのボールを、彼が流し込む。

7月28日、対フランス戦。前半、彼はふたたびゴール。3戦連続得点。

決勝トーナメント1回戦、対ニュージーランド戦はPK戦の末に勝利。

準決勝、対スペイン戦。延長戦の末、0-1。日本は、決勝の手前で、落ちた。

3位決定戦、対メキシコ戦。1-3。

日本は4位。メダルには、ぎりぎり届かなかった。

「悔しい、のひとことしか、出ない。」彼は、ピッチを降りるとき、そう言った。

サン・セバスティアン、青い海のまち

2022年7月19日。

ピレネー山脈のふもと、フランス国境にも近い、北スペインの海辺のまち——サン・セバスティアン。

そのまちのクラブ、レアル・ソシエダが、彼を完全移籍で獲得したと発表した。移籍金は約650万ユーロ、当時のレートで9億円ほど。契約は2027年までの5年。レアル・マドリード側に、将来の移籍金の5割を取る条項と、買い戻しのオプションがついていた。

日本人の選手が、レアル・ソシエダでプレーするのは、これがはじめてだった。

「もう、レンタルじゃない。完全移籍だ。」マジョルカ、ビジャレアル、ヘタフェ、マジョルカ、と4度のレンタル先を渡り歩いた21歳の彼は、ようやく、自分の名前が書かれたロッカーに、3年以上帰る場所を持った。

デビュー戦の1点

2022年8月14日。ラ・リーガ開幕戦。

相手はカディスCF。サン・セバスティアンの海辺のスタジアムアノエタ。

21歳になった彼は、いきなりスタメンに名を呼ばれる。

前半36分、ペナルティエリアの外から、彼は左足を振り抜いた。

ボールはゴールの隅に突き刺さる。デビュー戦で、移籍後初ゴール。

ソシエダはそのまま1-0で勝利。

バルサで追い返され、マジョルカ、ビジャレアル、ヘタフェ、もう一度のマジョルカ。4年、4クラブのレンタルを旅した彼は、ようやく、ここに、

「ぼくのまち」と「ぼくのチーム」を見つけた。

ARCHIVE FOOTAGE 2022年8月14日 / ラ・リーガ開幕戦対カディスCF(移籍後初ゴール)
2022年8月14日 / ラ・リーガ開幕戦対カディスCF(移籍後初ゴール)
SOURCE / DAZN Japan YouTube

4年、4クラブのレンタルの旅を終えた21歳が、完全移籍初戦で決めた左足の1点。彼が自分のチームを見つけた瞬間。

ぼくのまち、ぼくのチーム

9月18日、第6節RCDエスパニョール戦。

ラ・リーガ通算100試合達成。乾貴士につぐ、日本人2人目の記録だった。

ロッカールームには、引退間際のダビド・シルバがいた。

のちに彼は、シルバとの出会いが、自分を大きく変えたと繰り返し語っている。

2023年1月、アスレティック・ビルバオとのバスクダービー。

シーズン3点目とPK奪取で、彼はその試合のMOMを獲った。

21節、2得点に絡んで2試合連続MOM。

そして、乾貴士につぐ日本人2人目のラ・リーガ通算二桁ゴール。

5月3日、古巣レアル・マドリード戦。彼は後半早々に、白いユニフォームの守備陣のあいだから、左足で1点を押し込んだ。

2022-23シーズン通算、リーグ戦9ゴール4アシスト。キャリアハイの数字だった。

そして、チームを10シーズンぶりのUEFAチャンピオンズリーグ出場へ押し上げた。

シーズン後、彼はチームの年間最優秀選手と、海外紙選定のリーグ年間ベストイレブンに選ばれた。

ARCHIVE FOOTAGE 2023年5月3日 / 対レアル・マドリード(古巣を相手にゴール)
2023年5月3日 / 対レアル・マドリード(古巣を相手にゴール)
SOURCE / DAZN Japan YouTube

古巣マドリードを相手に、後半開始早々のゴール。先制お膳立てに幻ミドル、試合に敗れても別格の輝き。

名前を、残す

2023年9月3日、第4節、グラナダCF戦。

彼は1試合2得点。スペインでのキャリアで初の、1試合複数ゴールだった。そしてこの2点目で、彼は、乾貴士が持っていた日本人ラ・リーガ最多ゴール記録を塗り替えた。

9月20日、UEFAチャンピオンズリーグホーム開幕戦、対インテル。彼は72分までピッチに立ち、CLに初めて出場した。

9月のリーグ戦5試合で4ゴール。シーズン序盤、ジュード・ベリンガムらを押さえ、彼は日本人初のラ・リーガ月間最優秀選手(Player of the Month)に選ばれた。

2024年2月12日、ソシエダは彼との契約を2029年まで延長した。

「天才と呼ばれて笑った子」が、「誰よりも長く蹴ってきた子」が、ようやく、自分のチームのユニフォームに自分の名前を、長く残せる場所にたどり着いた。

カタール2022 — ホテルの窓

2022年11月、カタール。

FIFAワールドカップ本大会。グループステージのドイツ戦とスペイン戦——ふたつの大きな試合に、彼は先発で名を呼ばれた。日本代表は、その2試合のどちらにも勝ち、世界を驚かせた。

ドイツ戦の試合直前。ロッカールームで21歳の彼は、ひとりの先輩のもとに歩み寄っている。

36歳の左サイドバック、長友佑都。11歳の自分と並んで写真を撮った、あの長友だった。

「いろいろなことがあって、同じサイドでスタメンを組めて嬉しいです。」彼は、ただそれだけを、短く伝えた。

あの約束から、9年。ふたりは、世界一の舞台の、同じサイドに立っていた。久保は左サイドハーフ、長友は左サイドバック。

ただし、2試合とも、彼は前半で交代した。90分のうち、半分しかピッチにいられなかった。

決勝トーナメント1回戦、対クロアチア戦。その朝、彼は高熱を出していた。39度。

クロアチア戦のピッチに、彼は立てなかった。ドーハのホテルの部屋で、テレビ画面を黙って見つめるしかなかった。

日本はPK戦の末、敗れた。歴史的なベスト8の1歩手前で、大会は終わった。

悔しさは、まだ終わっていなかった。ホテルの窓のむこうに、彼は次の4年を見ていた。

「舐められたら終わり」は、まだ

2025年1月、バレンシアのスタジアム。ウォーミングアップ中の彼に、スタンドの一部から、アジア人を蔑むヤジが浴びせられた。クラブのレアル・ソシエダは、ただちに抗議の声明を出した。スペイン政府の暴力防止委員会は、ヤジを浴びせた観客を特定し、1年間のスタジアム入場禁止と罰金の処分を下した。

2025年2月、レガネスとの試合。試合中、相手選手から人種差別的な暴言が飛んだ。23歳の彼は黙らず、そのまま相手に詰め寄り、イエローカードを受けた。累積で、次節バルセロナ戦の出場停止が確定した。

「黙っていれば、出場停止にはならなかったのに。」そう言う人もいた。

けれど、彼は黙れなかった。

11歳のあの寮で、「舐められたら終わりだ」と心に刻んだ小さな少年は、12年が経った今も、同じように、自分の場所を守っていた。

2025年3月、W杯切符

2025年3月20日、埼玉。

2026年北中米ワールドカップアジア最終予選、対バーレーン戦。

背番号20、23歳。遠回りの末に、彼はここに立っていた。

前半、彼のラストパスを受けた鎌田大地が、GKとの1対1を冷静に流し込んで、日本が先制した。

後半、こんどは自分が、ペナルティエリアの外から左足をふりぬいた。世界が「ゴラッソ」と騒いだ1点。1試合1ゴール1アシスト。

試合終了のホイッスル。日本代表は、世界でいちばん早く、2026年W杯の出場権を手に入れた。

海を2度渡ったあの少年は、もう、日本代表の中心にいた。

ARCHIVE FOOTAGE 2025年3月20日 / AFC最終予選対バーレーン(1ゴール1アシスト)
2025年3月20日 / AFC最終予選対バーレーン(1ゴール1アシスト)
SOURCE / DAZN Japan YouTube

先制アシストに続いて、ペナルティエリア外からのゴラッソ。23歳の久保が、日本代表のW杯出場(世界最速)決定を牽引した試合。

数字の塔

ここで、いったん、彼の積み上げた数字を並べてみたい。すべて、2026年5月時点。

Jリーグ最年少出場 ——15歳5ヶ月1日。

Jリーグ最年少得点 ——15歳10ヶ月11日。

2019年6月、18歳でレアル・マドリードへ移籍。

マジョルカ、ビジャレアル、ヘタフェ、マジョルカ。4度のレンタルを、20歳までに経験。

2022年夏、レアル・ソシエダへ完全移籍。日本人として初の同クラブ所属。

2024年2月、契約を2029年まで延長。

ラ・リーガ通算約120試合23ゴール(2025-26シーズン終了時点・国内リーグ戦)。

日本代表通算約50試合7ゴール(2026年5月時点)。

2022年カタールワールドカップ、ドイツ戦・スペイン戦に先発。

2021年東京オリンピック、3戦連続ゴール。

2025年3月、23歳。1ゴール1アシストで、W杯出場決定の立役者に。

2026年4月、コパ・デル・レイ決勝。レアル・ソシエダが、アトレティコ・マドリードをPK戦の末に下し、5年ぶり4回目の優勝。久保にとって、キャリア初のタイトル獲得だった。

海をふたつ、渡った少年

「環境のせいには、絶対したくない。結局、自分がやるか、やらないか。それだけ。」——インタビューで、彼が繰り返し語ってきた言葉だといわれている。

海をふたつ、渡った少年がいた。

1度目の海で、彼はバルセロナの寮の門をくぐり、規定違反の紙きれ1枚で、追い返された。

2度目の海で、彼はマドリードの白い街に入り、4つの街を流れた末に、北の青い海辺のまちで、ようやく自分の居場所を持った。

夢は、止まらない

けれど、彼の夢は、そこで止まっていない。

子どもの頃から、ずっと口にしてきた、たったひとつの夢——

「世界のトッププレイヤーになる」。

同じ年代に生まれた仲間たちのなかには、もう世界のトップで戦い、バロンドールの候補に名を並べる者もいる。

彼自身も、きっと、思い描いていたスピードよりは少し遠まわりの道を、歩いてきたのだろう。

けれど、彼はまだ24歳だ。

24歳から、ようやく花を咲かせて、世界のトッププレイヤーになった選手は、サッカーの歴史のなかに、数えきれないほどいる。

新しい時代の扉

誰よりもサッカーが好きで、誰よりも長くボールを蹴ってきたあの少年が、いま、これまでの全部を背負って、大きな大会へ向かおうとしている。

2026年6月。彼は3度目の海をこえて、北中米ワールドカップの大地に立つ。

この大会が、久保建英のキャリアの扉を、大きく開ける舞台になるのか。それは、まだ、誰にもわからない。

わかっているのは、ひとつだけ——

久保建英の新しい時代の扉が、もうすぐ、開こうとしている。

ここからが、本番だ。 ← ポータルへ戻る