慶長五年 九月十五日 — 西暦 1600年10月21日

天下分け目の六時間

S C R O L L

第一章

豊臣、滅びの予兆

慶長三年 (1598年) 八月十八日、太閤・豊臣秀吉が伏見城にて病没した。享年六十二。百姓の子から一代で日本全土を統一した稀代の天下人は、死の床で諸大名の手を取り、「秀頼のこと たのみ申し候」と何度も繰り返した。後継者の秀頼は、わずか六歳であった。

秀吉が遺した統治機構は、五大老・五奉行による合議制。百万石超の大大名五人が重要事項を決し、奉行五人が実務を担う二層構造である。しかしその設計は、死の直前に急ごしらえされた弥縫策に過ぎなかった。大老間の権限分界は曖昧で、筆頭格の 徳川家康 が単独行動に出れば、誰も止める術を持たなかった。

家康、関東二百五十万石。全国総石高のおよそ一割を一人で握る、天下最大の実力者である。秀吉の在世中は恭順を装っていたが、その死を誰よりも冷静に見据えていた。諸大名との無断婚姻、私的な同盟結成──秀吉が明確に禁じた「勝手な取り決め」を、家康は次々と破っていく。天下を狙う意志は、もはや隠そうともしなかった。

これに真正面から立ちはだかったのが、奉行衆の実質的筆頭・石田三成。近江佐和山十九万四千石と石高こそ小さいが、太閤検地を指揮し、朝鮮出兵の兵站を束ねた豊臣官僚機構の頭脳である。秀吉への忠義は絶対、家康への警戒心も絶対。理詰めで筋を通すその性格は、朝鮮で血を流した武断派の諸将から「戦場を知らぬ奉行」と深く憎まれていた。

慶長四年閏三月、秀吉の盟友・前田利家が死去すると、タガは一気に外れた。福島正則・加藤清正ら武断派七将が三成を襲撃。三成は皮肉にも仇敵・家康の屋敷に逃げ込み、その仲裁で奉行職を辞して佐和山へ引退した。家康はこの時、あえて三成を「生かして返した」──政敵の挙兵を誘発するための、用意周到な一手である。

そして慶長五年七月、ついに運命の時が動き出す。家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、全国の諸大名を率いて東へ発つ。その留守を衝いて、三成は佐和山から兵を挙げる。日本列島を東と西に二分し、およそ十五万の兵が激突する大戦の、いよいよ幕が上がった。

東軍、西へ

江戸 → 小山 → 岐阜 → 関ヶ原

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東軍 主力の行軍

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第二章

東軍、西上す

七月二十四日 江戸

徳川家康、会津の上杉景勝を討つため、諸大名を率いて江戸を発つ。総勢およそ五万五千。名目は、上杉家重臣・直江兼続が送りつけた挑発的返答書「直江状」への討伐であった。しかし家康の真意は、上杉ではなかった。己が東国へ動けば、三成は必ず西で挙兵する──その挙兵をあえて誘発し、「豊臣に叛いた逆臣」として一挙に討つ。従軍する諸大名の多くは豊臣恩顧。彼らが家康側に残るか、三成に靡くか。天下の帰趨は、諸将一人ひとりの腹に賭けられていた。

七月二十五日 小山評定

下野・小山にて、三成挙兵の報が届く。家康は動揺もせず、むしろ待ち構えていたように軍議を開いた──これが世に名高い小山評定である。家康は諸将を見回し、あえて突き放すように問うた。「妻子を大坂に人質として取られし者は、ここで暇を告げ、西へ帰ってよい」。一座、粛として声なし。豊臣恩顧の大名たちに、家康は踏み絵を突きつけたのだ。

沈黙を破ったのが、秀吉の従弟にして武断派筆頭・福島正則であった。「三成を討つべし」。豊臣恩顧の頭格が家康支持を明言したことで、評定は一気に雪崩を打つ。黒田長政、細川忠興、山内一豊──次々に従軍を誓い、東軍ここに成立。家康の最初の賭けは、血を一滴も流さぬうちに勝利していた。

八月二十三日 岐阜城落城

東軍先鋒の福島正則・池田輝政らが、織田秀信の守る岐阜城に襲いかかる。秀信は信長の嫡孫、清洲会議で「三法師」として秀吉に擁立された織田宗家の正統。しかし西軍方として立った若き城主を、東軍は容赦なく攻め立てた。

岐阜城は金華山頂、難攻不落の山城。にもかかわらず、福島・池田の先陣争いの猛攻と、城兵の内応によって、わずか一日で陥落。この一戦で美濃は東軍の手に落ち、三成が築こうとした前線防衛網は根元から崩壊した。大垣城の目前まで東軍は肉薄し、家康は江戸でこの報を聞くや、自らの西上を即断する。

九月十四日 関ヶ原へ

家康は大垣城に籠もる三成本隊を正面から攻めなかった。代わりに全軍で大垣を素通りし、一路 佐和山・大坂 を衝く構えを見せたのである。これは三成にとって致命的な脅威であった──佐和山は三成の居城、大坂には西軍総大将・毛利輝元と、豊臣秀頼その人がいる。籠城して見殺しにする選択肢は、三成には残されていなかった。

三成は夜半、豪雨の中を西へ──関ヶ原盆地へと急行する。家康の進軍を遮る位置に布陣し、決戦を強いる唯一の手であった。家康もまた東から盆地に進み入る。狭く山に囲まれた盆地に、東西十五万余の大軍が目と鼻の先で夜を明かす。視界数十メートルの濃霧の底で、日本の運命を決する朝が近づいていた。

関ヶ原盆地

西軍 82,000 vs 東軍 74,000

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西軍 布陣位置

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第三章

西軍、山に布陣す

笹尾山 石田三成本陣

標高約200mの笹尾山に、三成は本陣を据えた。盆地全体を俯瞰でき、東軍の侵入ルートを完全に射程に収める、理に適った布陣である。

兵力は六千九百。数では東軍に劣るが、前面には馬防柵と土塁を幾重にも築き、猛将・島左近と蒲生郷舎を配して当時最新の火器・大筒までも備えた。三成の戦略は、単独で勝つことではなかった──自らは中央で東軍を受け止め、南宮山の毛利・吉川が背後から突き、松尾山の小早川が側面から雪崩れ込む。三方向からの挟撃、いわゆる鶴翼の陣形。理屈の上では、西軍が負けるはずのない盤面であった。

天満山 宇喜多秀家

宇喜多秀家、齢二十八。五大老の一人にして、備前・美作五十七万四千石の若き大大名。幼くして秀吉の猶子となり、豊臣家への恩義は三成以上に深い。ここ天満山に西軍最大の主力一万七千を率い、東軍の中核・福島正則隊と真正面から向き合った。

秀家は三成の盟友であり、関ヶ原で最も苛烈に戦った武将の一人。彼の戦線がもし崩れれば、西軍中央は一瞬で分断される。逆にここを持ちこたえれば、包囲の環は完成する。若き総大将の肩に、西軍の命運がそのまま懸かっていた。

松尾山 小早川秀秋

小早川秀秋、わずか十九歳。秀吉正室・北政所の甥にして、一時は関白継承まで囁かれた豊臣一門である。筑前名島五十二万石の当主として一万五千の大軍を擁し、戦場全体を見下ろす松尾山に布陣した。

西軍の青写真では、彼が山を駆け降りて東軍の側面を突けば、勝敗は決するはずであった。しかし秀秋は、すでに黒田長政を介して家康と内通している疑いが濃かった。戦後の加増の密約、豊臣への義理、徳川への打算──その若き胸中を、誰も正確に読めなかった。戦場で最も高い山に陣取った十九歳の心変わりが、この日の天下を決する。

南宮山 毛利・吉川

西軍右翼、標高420mの南宮山には、毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・長束正家ら三万の大軍が布陣。兵力だけ見れば、東軍を背後から一掃できる規模である。しかし彼らもまた、動けぬ事情を抱えていた。

前面の吉川広家は、既に黒田長政を通じて家康と密約を交わしていた。「毛利本家の本領を安堵する代わりに、戦には参加しない」。当日、後ろに控える毛利秀元が「今こそ突撃を」と催促するたび、広家は答える。「ただ今、兵に弁当を食わせており動けぬ」。世にいう宰相殿の空弁当。三万の大軍は、戦場に在るだけの置物と化した。三成の読んだ「背後からの挟撃」は、開戦前から既に崩れていたのである。

桃配山 徳川家康本陣

盆地の東端、桃配山。家康は己の本陣を戦場の最前線近くに据えた。東軍総勢七万四千の中核、三万余。周囲には井伊直政・本多忠勝ら譜代の精鋭が並び、岐阜城攻めで勝ち続けた東軍の士気は高い。

本陣を後方深くに置く伝統的な戦術を、家康はここで捨てた。自ら将兵の目に見える位置に立つ──退かぬ覚悟の表明であり、同時に従軍する豊臣恩顧の諸将への無言の圧でもあった。勝てば一挙に天下、負ければ首を失う。五十九歳の老将が、生涯最大の賭けに全てを投じていた。桃配山の名は、壬申の乱で大海人皇子が兵に桃を配ったという故事に由来する。家康もまた、ここで時代を分ける戦の号令を下す。

第四章

開戦

戦場時刻

午前 八時 霧の中

朝霧が関ヶ原盆地を覆っていた。視界は数十メートル。前夜からの豪雨で地面はぬかるみ、鉄砲の火縄は湿気を吸って燻る。両軍およそ十五万、互いの位置を完全に把握できぬまま、息を潜めていた。この濃霧さえなければ、数で勝る西軍の挟撃陣形は開戦直後に東軍を飲み込んでいたかもしれない。しかし霧は、盆地に均等に降り、全ての将の判断を一時停止させていた。

午前 九時 衝突

東軍先鋒は、本来であれば豊臣恩顧の福島正則が任されていた。しかし家康の四男・松平忠吉の武者始めを花々しく飾りたい井伊直政が、霧に紛れて宇喜多隊へ抜け駆けの発砲を命じる。銃声が霧を切り裂く瞬間、宇喜多隊が即座に応射。戦端、ついに開かれた。意図を察した福島隊も遅れじと一斉射撃、戦線は中央から両翼へ一気に燃え広がる。福島対宇喜多、藤堂・京極対大谷、黒田・細川対石田──盆地全体が、轟音と火煙に包まれていった。

午前 十時 膠着

霧が晴れた。しかし戦況は、三成の描いた画に沿っていなかった。東軍は笹尾山へ突撃を繰り返すが、馬防柵と大筒の射撃に阻まれ釘付けとなる。一方、宇喜多秀家は福島正則と一進一退の死闘、小西行長・大谷吉継・島津義弘もそれぞれの持ち場で奮戦し、戦線は全面で膠着。損害ばかりが積み重なっていく。三成は狼煙を上げ続けた──松尾山へ、南宮山へ。「今こそ動け」と。しかし、どの山も微動だにしなかった。戦場の時間は、ひたすら三成に不利に流れていく。

第五章

松尾山、動く

正午。
戦線、依然として膠着。
松尾山の一万五千、山頂から動かず。

家康、煩悶する。
『秀秋は、まだ迷うておるか』

家康、決断。
松尾山へ向けて
問鉄砲を放たせる。

「味方か、敵か──
ここで、腹を定めよ」

銃声が山頂を打つ。
小早川秀秋、ついに意を決する。

秀秋、一万五千の大軍をもって
山を駆け降り、
味方・大谷吉継の側面を突く。

吉継は裏切りを予期し、
兵を山側に向けて構えていた。
しかし──

脇坂・朽木・小川・赤座の
四将までもが雪崩を打って東軍へ寝返る。
四方より袋の鼠。

大谷吉継、輿上にて自刃。
「我、武運拙し」。

西軍、崩れる。

第六章

午後二時、決す

大谷隊の崩壊を機に、宇喜多・小西の西軍中央も連鎖的に壊滅。島津義弘はわずか千余の手勢で東軍の中央を突破、徳川本陣の脇をかすめて薩摩へ駆け抜けた──世にいう「島津の退き口」。開戦からわずか六時間。天下分け目の大決戦は、あっけなく幕を閉じた。

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西軍 総兵力

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東軍 総兵力

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戦死者 (推定)

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決着までの時間

三成は伊吹山中へ敗走したが、十日後に近江・古橋村で捕縛。京・六条河原にて小西行長・安国寺恵瓊とともに斬首された。享年四十一。辞世「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。家康はこの日、事実上の天下人となった。戦後の論功行賞で西軍方大名八十八家が改易・減封。総石高六百三十万石が東軍諸将に再分配され、日本の富の地図が、一日で塗り替わった。

終章

江戸の夜明け

慶長八年 (1603年) 二月十二日、徳川家康は征夷大将軍に任じられる。関ヶ原から二年半、ついに江戸に幕府が開かれた。以後二百六十年に及ぶ泰平の世──徳川の平和の始まりである。

関ヶ原の勝利は、単なる軍事的勝利ではなかった。戦後の論功行賞で、家康は東軍の外様大名を恩賞とともに遠国へ配し、譜代の家臣を江戸周辺の要衝に据え、自らの血縁を親藩として各地に置いた。外様・譜代・親藩──幕藩体制の骨格が、この一日の勝利から生まれた。かつて豊臣恩顧の筆頭であった福島正則さえ、後に改易される運命を免れない。

しかし、秀吉の血脈はなお大坂に残っていた。秀頼は成長し、摂関家の位に昇り、なお豊臣家の権威を保った。家康は慶長十九年 (1614年) の冬の陣、翌二十年の夏の陣を起こし、ようやく豊臣家を滅ぼす。天下を完全に徳川のものとするには、関ヶ原の勝利からさらに十五年の歳月が必要だったのである。

関ヶ原の六時間は、日本という国のかたちを決めた。その勝敗を分けたのは、兵の数でも地形でもなく、──誰が誰を信じ、誰を裏切るかという、人の心であったのかもしれない。

↑ もう一度、関ヶ原へ

詳細年表

関ヶ原前後、二十年の流れ

関ヶ原の戦いは、秀吉死去に始まる二年間の対立が一日に凝縮されたもの。そしてこの一日が、その後の日本を二百六十年定めた。

  1. 1598-08-18 慶長三年 八月十八日

    豊臣秀吉、伏見城にて病没

    享年六十二。わずか六歳の秀頼を遺して天下人が死去。五大老・五奉行の合議体制がスタートするも、最初から亀裂を孕んでいた。

  2. 1599-03-04 慶長四年 閏三月

    前田利家没・七将襲撃事件

    秀吉の盟友・前田利家が死去すると、福島正則・加藤清正ら武断派七将が石田三成を襲撃。三成は伏見城に逃れ、家康の仲裁で奉行職を辞して佐和山に引退する。

  3. 1600-06-16 慶長五年 六月十六日

    家康、会津征伐の軍を発す

    上杉景勝に謀反の疑いありとして家康が諸大名を率いて会津へ向かう。実際は三成との最終対決を狙った周到な策略であった。

  4. 1600-07-17 慶長五年 七月十七日

    三成、挙兵

    毛利輝元を総大将に立てて西軍挙兵。「内府ちかひの条々」を全国に発し、家康の罪状十三条を糾弾。

  5. 1600-07-25 慶長五年 七月二十五日

    小山評定

    会津征伐途上の家康のもとに三成挙兵の報が届く。諸将を集めた評定で、福島正則らが「三成を討つべし」と誓い、東軍が成立。

  6. 1600-08-23 慶長五年 八月二十三日

    岐阜城、一日にて落城

    東軍先鋒の福島正則・池田輝政らが、織田秀信の守る岐阜城を攻撃。わずか一日で陥落し、西軍の東国防衛線は崩壊した。

  7. 1600-09-15 慶長五年 九月十五日

    関ヶ原の戦い

    午前八時開戦。小早川秀秋の裏切りで正午に戦況が決し、午後二時までに西軍は総崩れ。わずか六時間で天下の帰趨が決まった。

  8. 1600-09-27 慶長五年 九月二十七日

    三成、捕縛

    伊吹山中を彷徨した三成は、近江・古橋村の田中吉政に発見・捕縛される。

  9. 1600-10-01 慶長五年 十月一日

    三成ら、六条河原にて斬首

    石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の三人が京・六条河原にて斬首された。三成、享年四十一。

  10. 1603-02-12 慶長八年 二月十二日

    家康、征夷大将軍に任官

    伏見城にて任官の儀。江戸幕府が正式に成立した。関ヶ原から二年半の時を経て、徳川の世が始まる。

  11. 1614-11 〜 1615-05 慶長十九年〜二十年

    大坂の陣、豊臣家滅亡

    冬の陣・夏の陣を経て、秀吉の遺児・豊臣秀頼と淀殿が自刃。秀吉の血脈は途絶え、徳川の独裁体制が確立した。

  12. 1616-04-17 元和二年 四月十七日

    徳川家康、駿府にて没す

    享年七十五。戒名「東照大権現」として日光東照宮に祀られる。関ヶ原から十六年、天下人としての余生を全うした。

用語・地名

関ヶ原を読み解く

合戦を理解する鍵となる用語と、決戦の舞台となった地形を深く知る。