小栗忠順 (おぐり ただまさ) / 通称 小栗上野介 — 文政十年〜慶応四年
小栗忠順
幕府最後の頭脳、小栗上野介の四十二年 ── 駿河台から水沼河原まで
第一章 駿河台
旗本の子、世界を覗く
文政十年 六月二十三日 (1827年7月16日)、江戸神田 駿河台 の旗本屋敷にて、一人の男児が産声を上げた。父は 二千五百石 の旗本・小栗忠高。家康の関東入部に従って入府した譜代の直参である。幼名を剛太郎。後に 小栗忠順、世に「小栗上野介」と呼ばれる男の、始まりであった。
小栗が物心つく頃、江戸城の内では二百六十年続いた泰平の箍が軋み始めていた。諸藩は累積借財に喘ぎ、百姓一揆は年ごとに増え、蝦夷や沖合には露・英・米の船影が絶えず現れる。倹約令と蘭学禁令のあいだで揺れる幕閣の手は、もはや時代の速さに追いつかなかった。旗本の子弟に求められたのは「武の誇り」ではなく、西洋の鉄と数式を読む眼であった。
少年小栗は、剣を 島田虎之助 の直心影流に学び、儒学を駿河台の漢学塾で磨いた。とりわけ算術と海外事情への執着は尋常でなく、父・忠高が阿部正弘の下で海防掛を務めていた縁から、早くに蘭書や英字新聞の存在を知ったという。武士の矜恃と技術官僚の眼──二つを同時に宿したこの均衡感覚が、後に彼を「幕府最後の頭脳」と呼ばせることになる。
嘉永六年 (1853)、二十七歳の年、黒船が浦賀に現れた。泰平の眠りを破る鉄の鯨を目の当たりにした小栗は、「わが国の独立はあと十年と持つまい」と父に語ったと伝わる。安政二年、父の死で家督を継いだ彼は、小普請組から目付へと駆け上がり、外国掛の実務中枢に据えられる。単身乗り込み型 の交渉官として、井伊直弼政権下で諸外国公使と渡り合い、条約の実務を詰めていった。
そして安政七年 (1860) 正月、この年に万延と改元される春、小栗は 遣米使節 に 目付 として抜擢される。正使 新見正興、副使 村垣範正、そして監察役の小栗──三名を柱とする七十七名が、米海軍旗艦 ポーハタン号 に乗り、日米修好通商条約の批准書交換のため太平洋へ漕ぎ出した。日本史上初の、公式にして組織的な「地球一周」であった。
江戸湾の外へ小栗が踏み出したその瞬間、彼の人生は決定的に折れ曲がる。江戸の内で「外国を語る」者は多くいた。しかし実際に大西洋を越え、産業革命の工場群を歩き、連邦議会を見て、大統領と握手を交わした日本人は、ほぼ存在しなかった。小栗忠順は、その最初の一人となった。彼がアメリカから持ち帰る衝撃と計算式が、幕末日本最後の十年を、輪郭までも規定していく。
地球を一周した男
浦賀 → サンフランシスコ → ワシントン → フィラデルフィア → 喜望峰 → 品川
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第二章 太平洋を越えて
万延元年、世界一周の航跡
万延元年 正月二十二日 浦賀
1860年2月13日、小栗ら遣米使節七十七名を乗せた米海軍旗艦 ポーハタン号 が浦賀を出港する。随行艦には 勝海舟 艦長の 咸臨丸。幕府は二隻を並べて太平洋を渡らせ、「我が国も独力で外洋を越え得る」と欧米に示そうとした。
小栗三十四歳、目付。彼の役目は正副使の監察と、条約批准書の警護である。前年から続く攘夷の狂熱のなか、渡航そのものが命懸けの政治行動であった。江戸を発つ際、小栗は妻・道子に「もはや生きて還らぬ覚悟」と告げたと伝わる。
万延元年 三月八日 サンフランシスコ
三十七日の航海を経て、3月29日サンフランシスコ到着。使節団はゴールドラッシュに沸く西海岸の街並みに度肝を抜かれる。ガス灯、石造の高層建築、蒸気機関車、写真館──日本人が見たこともない都市の骨格が、そこに在った。
小栗は風景に感嘆するだけでは済まさなかった。街頭で洋銀を入手し、懐紙に数字を書き連ねた。「この国の貨幣制度を理解せずして、条約の損得は語れぬ」──彼の視線は常に、銀の重さと交換比率という実務へ向かっていた。サンフランシスコ滞在は三週間、その全てを彼は「観察」に費やした。
万延元年 四月三日 ワシントンD.C.
サンフランシスコからパナマ地峡を鉄道で越え、大西洋側でフリゲート艦ロアノーク号に乗り換え、1860年5月14日ワシントン到着。十日後の5月17日、使節団はホワイトハウスにて ジェームズ・ブキャナン大統領 に謁見、条約批准書を交換した。
小栗は大統領宮殿を「想像したほど壮麗にあらず。質素なり」と日記に記し、連邦議会の議場を見学して「諸侯が対等に言を闘わすさま、我が国の評定とは似ても似つかず」と驚嘆した。立憲政体の骨格を、彼は肌で学んだ。ただ同時に、「これは直ちに移植し得ず。我が国には我が国の道あり」とも書き添えている。冷静な技術官僚の眼は、浮かれることがなかった。
万延元年 四月十七日 フィラデルフィア造幣局
小栗がこの渡米で果たした最大の仕事は、このフィラデルフィアの夏にあった。彼は米国造幣局に対し、「日本の 小判 と米ドルの交換比率は不当である」と正式に抗議し、実物を持ち込んで 実測 を要求する。
三日間、局長ペッティットの立ち会いのもと、天秤と化学分析器で金含有量と重量が計測された。結果、小判一両は米貨でおよそ三ドル五十八セント相当──当時日本国内で流通していた交換レートのおよそ三倍である。幕府が安政の通商条約で結んでしまった 洋銀一ドル=一分 の比率により、国内の金貨が怒涛の如く国外へ流出していたのだ。小栗は帰国後、この測定結果を根拠に条約改正を論じ続ける。現代に至るまで「日本人が最初に国際金融交渉で成果を挙げた瞬間」と評される出来事であった。
万延元年 五月十日 ニューヨーク、そして世界一周
1860年6月16日、使節団はブロードウェイを馬車で行進した。沿道には五十万のニューヨーク市民。詩人ウォルト・ホイットマンはこの日の光景を『使節たちへ』と題する詩に刻んだ。極東の島国からやって来た帯刀の侍たちは、紛れもなくこの年の夏、世界で最も有名な日本人であった。
帰路、使節団は ナイアガラ号 に乗船して大西洋を東へ渡り、アフリカ大陸を回り込み、喜望峰、バタヴィア (現ジャカルタ)、香港を経て、9月27日品川に帰着。九か月をかけた日本初の公的な地球一周であった。小栗は日記に記した。「彼の国の富強、我が国の十倍にあらず、百倍なり。焦らば即ち滅ぶ、怠れば即ち失う」──この一行が、帰国後の彼のすべての仕事を駆動する。
近代化、同時多面作戦
横須賀 / 江戸城 / 横浜 / 兵庫 / 関東近郊
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第三章 帰国、そして布陣
幕府再建、五つの戦線
江戸城中之口 勘定奉行所
帰国直後、小栗は 外国奉行、翌年には 勘定奉行 に就任。以後七年、昇進と左遷を繰り返しつつ、幕府中枢の財政と外交と軍制を同時に差配し続けた。就任した役職はのべ十五を超える──これは幕末の幕臣中、群を抜く数字である。
彼が描いた構図は壮大であった。フランス式陸軍、蒸気艦海軍、近代造船所、株式会社、郡県制、鉄道敷設、郵便、度量衡統一。明治政府がその後三十年かけて実現する制度骨格の大部分を、小栗はすでに慶応二年までに建白書として書き上げていた。「我ら既に滅びる身なれど、仕事は残す」──後の「土蔵付売家」の思想は、この机の上で結晶した。
横須賀 製鉄所 (造船所)
小栗の最大の置き土産。慶応元年 (1865) 十一月十五日、相模国三浦郡横須賀に 横須賀製鉄所 の定礎式が挙行された。仏公使 レオン・ロッシュ の紹介で招聘された技師 フランソワ・レオンス・ヴェルニー が指揮を執り、フランスから二百四十万ドルの借款で船渠三基と工場群を起工。
幕閣には「滅びゆく幕府が三代先の事業を起こすのは愚」と論難された。小栗は答えた。「土蔵付売家の譬えあり。家は売っても土蔵は残る」。造船所は明治四年 (1871) 新政府の手で完成し、海軍工廠として引き継がれ、やがて 東郷平八郎 率いる連合艦隊の主力艦を整備することとなる。日本海海戦の勝利は、この日の礎の上にあった。
横浜 仏公使館・伝習所
横浜は小栗の外交と軍制改革の結節点。仏公使ロッシュは、英国派の 勝海舟 と対照的に幕府存続を強く支持し、小栗の「フランス式近代化」の伴走者となった。慶応二年、ロッシュの仲介で六百万ドルの借款交渉が進む。
軍事面では フランス軍事顧問団 (シャノワーヌ団長) が横浜に着任。伝習所で幕府歩兵に西洋式歩兵操練と砲術を仕込んだ。この伝習で訓練された幕府陸軍こそ、後に箱館まで戦い抜く 伝習隊 の母体である。小栗は「将来の日本陸軍の型は、仏式で作る」と断言していた。彼の死後、明治政府もしばらく仏式を継承し、日露戦後の独式転換まで、その骨格は生き残る。
兵庫 兵庫商社
慶応三年 (1867) 五月、大坂・兵庫開港を前に、小栗は日本初の「株式会社的」組織を設計する。鴻池・加島屋・平野屋ら二十の豪商と幕府が合資し、資本金百万両、為替と輸出入を統合する近代商社であった。定款は小栗自ら起草。
これは単なる商社ではなかった。外国商人に蚕食されつつあった開港貿易を、日本側の統合組織で迎え撃つ戦略的装置である。兵庫商社は発足後わずか半年で幕府崩壊と共に解散したが、その定款と合資形態は後年、三井物産・三菱商社の原型として参照されたといわれる。「株式会社」という概念を幕末日本に最初に持ち込んだのは、小栗であった。
駿河台 小栗屋敷
これら全ての策を練り、建白書を執筆し、家臣と密議を交わした拠点が、駿河台の本邸であった。小栗は自邸に洋書千冊を蓄え、塾のごとく若い幕臣を集めては議論した。常連には 栗本鋤雲、福地源一郎 (桜痴) ら、後の明治ジャーナリズムの礎となる面々がいた。
慶応三年末、屋敷の応接間で小栗は、仏公使ロッシュに対し「来年になれば、幕府は鳥羽伏見で敗れよう。されどその後こそ、我が策の真価が問われる」と予言したと伝わる。鳥羽伏見の戦いまで、残り一か月のことである。
第四章 江戸城
慶応四年正月十五日、解任
辰の刻 黒書院に参集す
慶応四年正月十五日朝、江戸城黒書院。前将軍徳川慶喜が大坂城から軍艦開陽丸で品川へ敗走してから、わずか三日。鳥羽伏見の敗報と、慶喜の戦線離脱という二重の衝撃に、幕閣は凍りついていた。小栗忠順四十二歳、勘定奉行にして陸軍奉行並。登城した彼の懐には、一晩で書き上げた策書があった。題して「箱根迎撃策」。
巳の刻 小栗、具陳す
小栗は慶喜と閣老の前で、立ったまま早口に説いた。官軍は東海道と中山道を東進中。その補給線は長く、背後は海。幕府海軍の艦隊を駿河湾と紀伊水道に展開させ、陸軍精鋭を箱根に集結して迎撃。機を見て海上から敵後方へ強襲上陸すれば、官軍は必ず崩れる──。軍略として、この策には穴がなかった。榎本武揚の艦隊を知る者は、皆うなずいた。
午の刻 慶喜、黙す
しかし慶喜の口から出たのは「朝敵とならば、徳川の名を千載に汚す」であった。慶喜はすでに恭順を決めていた。前日、勝海舟が呼ばれている。英国公使パークスとの繋がり、徹底抗戦すれば江戸は灰燼に帰すという読み。そして何より、慶喜個人の性分──この将軍は、血を見ることを最も恐れた。小栗はなお食い下がった。「恭順して生き延びたる徳川、後世の笑を買い申さんや」。しかし主君は再び首を振った。
未の刻 御役御免
夕刻、小栗に沙汰が下る。「御役御免、屋敷にて謹慎」。勘定奉行、陸軍奉行並、軍艦奉行、全ての職を一日にして失った。屋敷に戻った小栗は妻と母の前で一言、「これにて 徳川家の公務、 終り候」。翌日から彼は自宅の書斎で遺稿を整理し始める。幕府が滅ぶことは、もはや織り込まれていた。問題は、その滅び方だった。二月末、小栗一族は江戸を離れ、上州群馬郡の知行地・権田村 へ向かう。江戸を出る際、彼は栗本鋤雲にこう告げたという──「わが仕事の仕上げは、権田でやる」。
第五章 水沼河原
閏四月六日、烏川の朝
慶応四年二月二十八日、江戸発。
上州権田村、三月一日到着。
権田の百姓、小栗を迎えて泣く。
「殿、ここで学問所を」
小栗、家塾を興す。
「国が滅んでも 人は残る」。
閏四月一日、東山道総督府軍 来襲。
嫌疑は「幕府残党、謀叛企図」。
小栗、抵抗せず。
「武士は 理なき戦はせぬ」と単身出頭。
閏四月四日、大胡にて取調。
糺問は 形ばかり、すでに斬を決す。
閏四月六日早暁、水沼河原。
烏川の瀬音だけが、辞世であった。
嫡子・又一忠道 十七歳、同日斬。
家名、ここに絶ゆ。
享年 四十二。
第六章 遺産
数字が語る四十二年
水沼河原で絶命した小栗忠順が、四十二年の生涯で遺した数字を並べる。これらは彼個人の業績であると同時に、明治という時代が静かに相続した遺産でもあった。
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遣米使節 総員
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歴任した幕府要職 (のべ)
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横須賀製鉄所 建設借款
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横須賀から日本海海戦まで
閏四月六日朝、小栗の首は東山道軍によって検分され、その亡骸は村人らにより権田村 東善寺に葬られた。妻・道子と母、乳飲み子の国子は会津路を北へ逃れ、のち明治を生きた。処刑の罪状は最後まで公式に示されなかった。新政府が小栗を恐れた理由は明白である──もし彼が生き延びれば、幕府再建の中核として、あるいは明治政府の財政・軍事の筆頭官僚として、薩長出身者を凌ぐ存在となり得た。徳川最後の頭脳は、新しい時代が始まる前に、最も徹底的に消されねばならなかったのである。
終章
明治は、小栗を模倣する
明治四年 (1871)、横須賀製鉄所が完成する。建設を主導した仏人技師ヴェルニーは、竣工式で「これは小栗公の事業である」と明言した。明治政府は追悼すらせず、ただ黙って施設を引き継ぎ、海軍の心臓とした。
小栗の同時代人 大隈重信 は、維新後に述懐している──「明治政府が成し遂げた大抵の事業は、小栗上野介が生前に構想し、書置きしておいたものの焼き直しに過ぎぬ」。郡県制、廃藩置県、鉄道、郵便、度量衡、株式会社、近代軍制──建白書の束が、政策の設計図となっていた。
明治三十八年 (1905) 五月、日本海海戦。東郷平八郎 率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅する。戦後、東郷は小栗の遺族を訪ね、その孫娘・国子の子に手を取って礼を述べたと伝わる。「我らが勝ち得たのは、横須賀があったから。横須賀があったのは、上野介殿のお陰である」──この逸話の一言一句については異説もあるが、海軍内部で小栗への敬意が語り継がれていたことは、複数の史料が裏づける。
幕府は滅びた。しかし土蔵は残った。そして土蔵のなかの設計図が、次の時代の骨格となった。小栗忠順という男の本当の勝敗は、水沼河原で決したのではない。明治日本が彼の構想をなぞって歩んだ、その三十年の歩幅のなかにこそ、刻まれている。
登場人物録
小栗上野介を囲んだ者たち
幕府最後の頭脳を、支え、競い、利用し、葬った八人。彼らの像を通してこそ、小栗忠順の輪郭は最もよく見える。
幕府最後の勘定奉行・陸軍奉行並。近代日本の設計者
小栗忠順 (小栗上野介)
おぐり ただまさ / こうずけのすけ
1827-1868
詳しく見る →江戸幕府第十五代将軍。最後の征夷大将軍
徳川慶喜
とくがわ よしのぶ
1837-1913
詳しく見る →幕府軍艦奉行・海軍の父。江戸無血開城の立役者
勝海舟 (勝麟太郎)
かつ かいしゅう
1823-1899
詳しく見る →外国奉行・万延元年遣米使節正使
新見正興
しんみ まさおき
1822-1869
詳しく見る →外国奉行・遣米使節副使。蝦夷地経営の専門家
村垣範正
むらがき のりまさ
1813-1880
詳しく見る →フランス駐日公使 (1864-1868)。幕府近代化の支援者
レオン・ロッシュ
Léon Roches
1809-1900
詳しく見る →フランス海軍技師。横須賀製鉄所の初代首長
フランソワ・レオンス・ヴェルニー
François Léonce Verny
1837-1908
詳しく見る →連合艦隊司令長官。日本海海戦の総指揮官
東郷平八郎
とうごう へいはちろう
1848-1934
詳しく見る →詳細年表
小栗忠順、四十二年の軌跡
文政十年の駿河台から、慶応四年の水沼河原まで。彼が生き、歩き、決断した四十二年を時系列で辿る。
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1827-07-16 文政十年 六月二十三日
駿河台に誕生
江戸神田駿河台の旗本 (二千五百石) 小栗忠高の嫡男として生まれる。幼名 剛太郎。
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1853-07-08 嘉永六年 六月三日
黒船来航
ペリー艦隊浦賀沖に到来。小栗二十七歳、強い危機感を抱く。「我が国の独立、あと十年と持つまい」。
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1855 安政二年
家督相続
父・忠高の死により小栗家を継ぐ。小普請組から目付へと昇進を重ねる。
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1860-02-13 万延元年 正月二十二日
遣米使節、浦賀出航
目付として米海軍ポーハタン号に乗船。正使 新見正興・副使 村垣範正と共に七十七名で渡米。
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1860-05-17 万延元年 三月二十七日
ブキャナン大統領に謁見
ワシントンD.C.のホワイトハウスにて日米修好通商条約批准書を交換。連邦議会を見学。
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1860-06-04 万延元年 四月十五日頃
フィラデルフィア造幣局の実測交渉
日本の小判と米ドルの交換比率不当を抗議、三日間の実測を行わせる。国際金融交渉の嚆矢。
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1860-06-16 万延元年 四月二十七日
ニューヨーク ブロードウェイのパレード
詩人ホイットマンが『使節たちへ』を詠む。沿道に五十万人。
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1860-09-27 万延元年 八月十三日
品川に帰着
喜望峰・バタヴィア経由で日本初の公式な地球一周。外国奉行に就任。
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1861 文久元年
勘定奉行に就任
幕府財政の中枢に入る。以後七年、勘定・外国・陸軍・軍艦奉行を重ねて歴任。
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1865-11-15 慶応元年 九月二十七日
横須賀製鉄所 定礎式
仏技師ヴェルニーを責任者に据え、造船所建設が始動。「土蔵付売家」の思想。
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1867-05 慶応三年 四月
兵庫商社 設立
鴻池ら二十豪商と幕府の合資による、日本初の近代的商社。
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1868-01-27 慶応四年 正月三日
鳥羽伏見の戦い 勃発
幕府軍、旧幕府勢力敗北。慶喜 大坂城より江戸へ敗走。
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1868-02-08 慶応四年 正月十五日
小栗、御役御免
江戸城黒書院にて箱根迎撃策を具申するも、慶喜 恭順の方針を決し、小栗は全役職を解任される。
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1868-03-21 慶応四年 二月二十八日
江戸を去り、権田村へ
一族を率いて上州群馬郡権田村へ。百姓らの歓迎を受け、家塾を興す。
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1868-05-22 慶応四年 閏四月一日
東山道総督府軍、権田村に来襲
謀叛の嫌疑で追討軍が到着。小栗は抵抗せず単身出頭。
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1868-05-27 慶応四年 閏四月六日
水沼河原にて斬首
烏川畔水沼河原にて斬首。享年四十二。嫡子又一忠道 (十七歳) も同日斬。遺骸は東善寺に葬られる。
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1871 明治四年
横須賀製鉄所 完成
新政府に引き継がれた造船所が稼働開始。竣工式でヴェルニー「これは小栗公の事業である」と明言。
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1905-05-27 明治三十八年 五月二十七日
日本海海戦
小栗の命日に、奇しくも連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅。東郷平八郎は後年、小栗の遺族を訪ねる。