ファウンダー絵本 だいいちわ
魔法のラーメン
安藤百福と チキンラーメンの ものがたり
S C R O L L1910年、台湾で
明治四十三年の春。安藤百福は、台湾の南、嘉義という小さな町で生まれました。
両親を早くに亡くした百福を育ててくれたのは、繊維商を営む おじいさんでした。
店にはいつも、布の匂いと、そろばんの音と、お客さんの笑い声が あふれていました。
おじいさんの 教え
「百福。商売とはな、人の役に立つことだよ。」
おじいさんは、毎日のように、そう繰り返してくれました。
少年は、店の隅で帳面のつけ方を覚え、お客さんの顔を覚え、商いの呼吸を、少しずつ自分のからだに取り込んでいきました。
二十二歳、海をわたる
一九三二年。二十二歳の百福は、海を渡って、大阪へやって来ました。
おじいさんから受け継いだ、少しばかりの資金。それを元手に、繊維の会社を立ち上げます。
勤勉と機転で、事業はぐんぐんと伸びていきました。三十代の半ばまでに、百福は大阪でも知られる、若き実業家になっていました。
焦土
やがて、戦争が やって来ました。
一九四五年三月。大阪の空は、夜だというのに、昼のように赤く染まりました。
工場も、倉庫も、商品も。
一晩で、灰になってしまいました。
残ったのは、焼け野原と、痩せた家族だけでした。
屋台の前の 長い列
焼け跡のあちこちに、人々が ふたたび戻って来ました。
ある寒い冬の夜のこと。百福は梅田の闇市で、湯気の立つラーメン屋台の前に、二十メートルを超える長い行列を見つけました。
みんなが、たった一杯の温かい麺のために、震えながら 待っていたのです。
「日本人は、こんなにも 食を求めている。」
その光景は、百福の胸の奥に、深く深く 焼きつきました。
信じる人々のために
戦後の混乱が続くなか、百福は中小企業の経営者たちを支えるために、信用組合の理事長を 引き受けました。
困っている人に、そっとお金を貸す——それが彼にとっての、商売の本道だったのです。
けれど、戦後の日本経済は、まだ大きく 揺れていました。
もう一度、ゼロから
一九五七年、信用組合は、破綻してしまいました。
理事長であった百福は、責任を取って、財産のほとんどを 失いました。
四十七歳。
残ったのは、池田の小さな自宅と、家族と、頭の中の記憶だけでした。
もう一度、ゼロから——。
裏庭の 小さな小屋
大阪府池田市。自宅の裏庭に、百福は一坪ほどの 小さな小屋を建てました。
中にあるのは、古い手回しの製麺機、中華鍋ひとつ、家族の食卓から少しずつ もらってきた食材。それだけでした。
「あの闇市で見た、長い列を思い出そう。」
安藤百福、四十八歳。たった一人の 挑戦が、始まりました。
春。麺は固まらず、味もまとまらず、何百回もの失敗が 続きました。
夏。蒸し暑い小屋のなかで、汗が ぽたぽたと、試作の上に落ちました。
秋。睡眠は、たったの四時間。家族はそっと、小屋の灯りを見つめていました。
冬。指先がかじかむ夜にも、百福は鍋から目を離しませんでした。
三百六十五日。ただひたすらに、麺と向きあい続けました。
そのとき
ある夜のこと。台所では、妻が天ぷらを揚げていました。
高温の油の中で、ぱちぱちと水分が飛び、衣がからりと乾いていきます。
百福は、その光景に、思わず息をのみました。
「これだ——!」
麺を油で揚げれば、瞬時に水分が抜けます。湯をかければ、また やわらかく戻ります。
のちに「瞬間湯熱乾燥法」と呼ばれる、世界で最初の発明が、生まれた瞬間でした。
1958年 8月25日
昭和三十三年八月二十五日。
一袋三十五円のその麺は、お湯をかけて、たった二分で食べることが できました。
明るい黄色と赤の袋には、にわとりの絵。
その名は、「チキンラーメン」。
世界で初めての、即席麺の誕生でした。
魔法の ラーメン
当時、お店で食べるラーメンは、一杯二十五円。
三十五円のチキンラーメンは、決して安いとは 言えませんでした。
それでも、人々は「魔法のラーメン」のように、夢中になっていきました。
「お湯を、かけるだけ。たったの、二分です。」
発売から一年で、千三百万食。たちまち日本中の食卓の風景が、変わりはじめました。
一九六六年、百福は単身、太平洋を越えて アメリカへ向かいました。
現地のスーパーマーケットの担当者は、チキンラーメンを試食しようと しました。
けれども、ここには丼がありません。箸もありません。
その担当者は、麺を半分に割って紙コップに入れ、お湯を注ぎ、フォークで すすって食べたのです。
百福の目は、その光景に 釘づけになりました。——丼が、なくてもいいのか?
もうひとつの 発明
一九七〇年、ふたたび池田の研究室です。
課題は、二つでした。
「お湯を注げる、軽くて丈夫な容器を つくること」。
「容器のなかで、麺が崩れない構造を 考えること」。
何百回もの試作、何千回もの失敗をくり返しました。
そして——
発泡スチロールの容器に、宙に浮く半分の麺。
上は固く、下はふっくら。お湯が、均等に行きわたります。
1971年 9月、銀座から世界へ
昭和四十六年九月十八日。カップヌードルは、銀座の歩行者天国で 売り出されました。
立ち食いというスタイルは、若者たちの心を、たちまち つかみました。
そして、その翌年の二月。あさま山荘事件が起こります。
厳寒の現場で、機動隊員たちがカップヌードルを温かそうにすする映像が、テレビに 流れました。
その夜のうちに、カップヌードルの名は、全国の津々浦々まで 届いたのです。
九十六歳まで
百福は、その後も生涯、研究室の現場に 立ち続けました。
二〇〇五年。宇宙食の即席麺「スペース・ラム」が、国際宇宙ステーションへと 旅立ちました。
そして二〇〇七年一月五日。百福は、九十六歳で この世を去ります。
いまや、即席麺は世界で年間 およそ千二百億食。日本人ひとりあたりに換算すると、年に五十食ちかくも食べられているのです。
あの裏庭の小屋で百福が願ったものは、たしかに、世界中の食卓に 届いていました。
食足世平
「食が足りてこそ、世は平らかになる。」
これは、安藤百福が生涯くり返した、たいせつな言葉です。
戦争。失敗。貧しさ。何度もゼロに戻された人生のなかで、百福が信じていたものは、ただひとつでした。
——お腹をすかせた人を、一人でも、減らすこと。
一杯のチキンラーメンの向こうに、百福が見つめていたのは、おだやかな、世界の食卓でした。
おわり ← ポータルへ戻る