ファウンダー絵本だいさんわ — 2026ワールドカップシリーズ
1ミリの少年
三笘薫 ─ 川崎・鷺沼から、世界の端まで
S C R O L L日田と、鷺沼と
日本列島の南、九州の真ん中に、大分県日田市という、山と川にかこまれた静かな盆地の町がある。
三笘という、竹冠の少しめずらしい名字は、この日田の土地でひっそり受け継がれてきたものだ。
1997年5月20日、その日田に、ひとりの男の子が生まれた。
けれど彼が育ったのは、日田ではない。両親に連れられて、東京のとなり、神奈川県川崎市の鷺沼という、坂と桜の多い住宅街に移り、そこで子ども時代をすごすことになる。
──三笘薫。28年後、世界がそのひとりの名前を呼ぶことになる、ちいさな男の子の物語が、ここから始まる。
兄の背中とボール
鷺沼の家の前には、いつも、ボールがころがっていた。
薫がはじめてサッカーをはじめたのは、3つ年上の兄を追いかけてのことだった。兄が外でボールを蹴ると、薫も小さな足で、おなじようにボールを追いかけた。
家のなかでも、兄と1対1。庭でも、近所の公園でも、1対1。──のちに本人は、いまの自分の武器であるドリブルは、あの兄との1対1が育てた、という趣旨のことを語っている。
鷺沼の住宅街には、小さな公園がいくつもある。そのどこかで、男の子は、毎日のようにボールを蹴っていた。
鷺沼SC、そして川崎F
薫が通った鷺沼小学校のグラウンドには、地元の人たちが運営する小さなサッカークラブ「さぎぬまSC」があった。
彼はそのチームに入り、おなじ町の、ちょっと年上の、同じようにドリブルが好きな少年と一緒にボールを追いかけることになる。
──のちに日本代表で運命の連携を見せることになる、田中碧。
ふたりは鷺沼の小さなグラウンドで、同じ風景を見ながら、サッカーを覚えていった。
薫は9歳で、街のすぐとなりにあるJクラブ、川崎フロンターレの下部組織に合格する。U-10、U-12、U-15、U-18──彼は10年近く、川崎の青いスクールバッグを背負い続けることになる。
トップ昇格を、断った
2015年、冬。
高校卒業をひかえた17歳の薫に、川崎フロンターレから、ひとつの紙が差し出される。
──トップチーム昇格の打診。
10年以上、青いユニフォームの下部組織で過ごしてきた少年にとって、それは、ながらく夢に見てきたはずの道だった。
けれど、薫は、首をふった。
「いまの自分では、プロでやっていける確信が、まだ持てない。」
彼が選んだのは、もう一度、立ち止まって考える道。
茨城県つくば市にある、筑波大学・体育専門学群への、スポーツ推薦による進学だった。
GoProと、卒論
筑波大学の蹴球部には、奇妙な実験をする青年がいた。
練習中、頭に小さなアクションカメラ──GoProを巻きつけ、自分が見ている景色そのものを撮るのだ。
彼は、ドリブルがうまい選手とそうでない選手では、目に映る情報の処理のしかたが違うはずだ、という仮説を立てていた。
「ぼくがドリブルで相手を抜くとき、ほんとうは何を見ているのか。」
それを、感覚ではなく、ことばと数字にしようとしたのだ。
卒業論文のタイトルは、こうなった。──
『サッカーの1対1場面における攻撃側の情報処理に関する研究』。
あとから多くの専門家が言うことになる。──彼のドリブルが、世界の名手たちと比べても異質な滑らかさを持っているのは、たぶん、この4年で自分の感覚を一度ことばにしたからだ、と。
天皇杯、60メートル
2017年6月21日。
第97回天皇杯2回戦、対ベガルタ仙台戦。J1のクラブを、大学生の筑波大が、ホームの宮城に挑みに行った試合だった。
前半6分。
自陣でボールを受けた20歳の薫が、前を向いた。
寄せてくる仙台の選手を、ひとり。
もうひとり。
──そのまま、ペナルティエリアの中まで、ひとりで運んだ。
推定およそ60メートル。
右足を振り抜く。ボールはゴールへ突き刺さった。
73分には、自身2点目。決勝点。
3−2。大学生が、J1を倒したジャイアントキリングだった。
のちに、その夜の彼を見ていた誰かは、こう振り返ることになる──「三笘伝説の始まりは、あの試合ですね」。
0:16〜、自陣からの独走60メートル。J1ベガルタ仙台を相手に、大学2年の三笘が刻んだ伝説の1点目(前半6分)。試合は筑波大が3−2でジャイアントキリングを完成させた。
ユニバーシアード金
同じ年の8月、台北。
大学2年生の薫は、ユニバーシアード日本代表に選ばれ、金メダルを獲得する。9月、川崎フロンターレが、彼を特別指定選手に承認した。
そして2019年9月、ルヴァンカップ準々決勝の名古屋戦で、ついに川崎のトップチームのピッチに立つ。86分、彼が交代でグラウンドに踏み出した瞬間──下部組織を含めて、川崎との10年以上の旅は、ようやくここから次の章に入った。
2020年、プロデビュー
2020年2月22日、J1リーグ開幕戦・サガン鳥栖戦。
プロ契約をかわした薫は、開幕スタメンとしてピッチに立つ。22歳での、遅咲きの、けれども約束されていた、デビューだった。
あの春、世界は新しいウイルスの影に覆われ、リーグは長く中断する。けれど、再開後の川崎は、止まらなかった。
湘南戦の1点
2020年7月26日、第7節・湘南ベルマーレ戦。
薫はプロ初ゴールを刻む。
それからの川崎は、彼を左サイドハーフに固定し、走らせ、ドリブルさせた。シーズン13ゴール12アシスト、ベストイレブン選出、そしてチームはJ1リーグと天皇杯の2冠。
──ドリブルを言葉にしてきた青年は、その言葉どおりに、Jリーグの左サイドを切り裂いていった。
ぬるぬるドリブルと、2冠
誰かが、彼のドリブルを「ぬるぬるドリブル」と呼びはじめた。
ぐっと加速したように見えるのに、足の運びはふしぎなほど静かで、相手がぶつかりにいったときには、もう、横を抜けている。
元日本代表の松井大輔は、こう語る──「彼のドリブルは、ぐっといこうとした瞬間に、相手のほうが先に動いてしまう。」
「だから、何もしないあいだに、花道が開いている。」
2020、2021と、川崎の青の下で50試合21得点。
言葉になっていた感覚が、結果に変わっていく。
デビュー年に13得点。Jリーグと天皇杯の2冠を支えた、左サイドの加速の記録。
Jリーグ史上最高額
2021年8月10日。
イングランド・プレミアリーグのブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンが、薫との4年契約の合意を発表する。移籍金は推定300万ユーロ、当時の為替でおよそ3億9000万円。
──Jリーグから海外への、史上最高額の旅立ち。
けれど、ブライトンは彼をすぐにはイングランドのピッチに立たせなかった。次の1年は、ベルギーの小さな街で過ごすことになる。
2021年8月、ベルギー・ブリュッセルの近く、サン=ジル。
ロイヤル・ユニオン・サンジロワーズに、薫は期限付きで送り出された。
9月12日、第7節ヘンク戦で初出場。
9月21日、ベルギーカップで初先発・初得点。
10月16日、スラン戦で、ハットトリック。
シーズン通算、リーグカップを含めて29試合8得点。
ヨーロッパの夜は、彼の足にゆっくり馴染んでいった。
代表デビュー、即アシスト
2021年11月16日、ベルギーで力をつけ始めた頃。
日本代表に初めて呼ばれた薫は、W杯アジア最終予選のオマーン戦で、後半から国際Aマッチデビューを果たす。
そして、出てきてすぐ──彼は決勝点となるアシストを記録した。
代表初出場、即決勝アシスト。ぬるぬるドリブルが、日本のサッカーの中心へ、すべりこんできた瞬間だった。
2022年3月24日、シドニー
2022年3月24日、オーストラリアのシドニー。
スタジアム・オーストラリア。W杯アジア最終予選、対オーストラリア戦。
勝てば、日本のカタール行きが決まる試合。
前半は、0−0のまま膠着していた。
後半、薫がベンチから呼ばれて、ピッチに立つ。
89分。左サイドからのドリブル。最後は、自分で押し込んで、1点。
90+4分。もう一度、ドリブル。たてつづけにもう1点。
途中出場の三笘の2発で、日本は2−0。
──7大会連続、7度目のワールドカップ出場が、決まった夜だった。
7:27〜、途中出場の三笘が89分と90+4分に立て続けに得点。7大会連続のW杯出場決定を告げた、シドニーの夜のハイライト。
東京五輪、4位
話を、すこしさかのぼる。
2021年夏、東京オリンピック。コロナ禍のなかで1年遅れて開かれた大会で、薫はU-24日本代表として戦っていた。
メダルにあと一歩、3位決定戦のメキシコ戦。日本は1−3で敗れ、東京五輪は4位で幕を閉じる。
メダルには、届かなかった。けれど、地元の大会で世界の強豪と戦った3週間は、彼のなかに、ひとつの未消化な手ざわりを残した。
プレミアの夏
2022年夏、薫はブライトンに本格的に合流する。
8月13日、第2節ニューカッスル戦でプレミアリーグデビュー。11月5日、ウォルヴァーハンプトン戦でプレミア初ゴール。
イングランド南部の海辺の街で、彼は左サイドの主役になっていった。
カタールへ
2022年11月1日。
2022 FIFAワールドカップ・カタール大会の日本代表26人が発表される。
そのリストのなかに、三笘薫の名前があった。
──大学を選び、ドリブルを言葉にしてから、わずか3年。彼は世界最大の舞台へ、はじめての切符を手にしていた。
ドイツとコスタリカ
11月23日、初戦ドイツ戦。後半、薫は途中出場で、堂安律の同点弾、浅野拓磨の決勝弾を生んだ流れの中にいた。日本は2−1で勝つ。世界が驚いた。
11月27日、コスタリカ戦。日本は0−1で敗れ、勢いは止まる。
グループステージ最終戦は、12月1日、スペイン。
勝てば突破。負ければ、まだ可能性は残るが、運に頼ることになる。──カタールの空気は、3戦目のキックオフを前に、いちど静かになった。
1ミリの折り返し
2022年12月1日、ドーハ。
対スペイン戦。日本は0−1のビハインドで後半を迎えた。
後半開始3分、堂安律のミドルが突き刺さって、1−1。
そのわずか3分後。
右サイドから、また堂安が、低くえぐるようなクロスを送る。
ボールは逆サイドへ流れ、ゴールラインの上を転がりかけた。
そこへ、左から走り込んだ薫が、右足を伸ばす。
ボールは、ほんの少しだけライン内に残っていた。
彼は、それを折り返した。
ゴール前。幼なじみの田中碧が、押し込んだ。
2−1。スペインを抜いて、グループE首位通過。──のちにこの瞬間は、「三笘の1ミリ」と呼ばれることになる。
FIFA公式チャンネルが投稿した、グループE最終戦・田中碧の決勝弾の瞬間。「三笘の1ミリ」が世界へ届けられた、その短い縦動画。
鷺沼のふたり
ゴールを押し込んだのは、田中碧。
ふたりは、川崎・鷺沼小学校で同じグラウンドを走り、さぎぬまSCで同じボールを蹴り、川崎フロンターレの下部組織でいっしょに育った、幼なじみだった。
鷺沼の小さなコートで何百回と繰り返した「左から折り返し、中で詰める」という、ありふれた連携。
それが、世界で2番目に大きな大会の、いちばん大事な瞬間に、もういちどあらわれた。
グループE首位通過
2分間のVAR検証ののち、ゴールは認められた。
FIFAも、のちに公式に発表する。──
「決定的な映像によれば、ボールの全体が完全にはラインを越えていなかった」。
日本は、グループEの首位で、決勝トーナメントへ進む。
ドイツ、スペインという2つの優勝経験国を倒して、一次リーグを抜けた、初めての日本代表だった。
BBCのグループステージ・ベストイレブンに、薫の名前も並んだ。
クロアチアと、PK
2022年12月5日、決勝トーナメント1回戦、クロアチア。
前田大然のゴールで先制した日本は、後半に追いつかれた。
延長戦も決着がつかず、勝負は、PK戦。
1人目、南野拓実。──止められた。
2人目に、薫が呼ばれる。
彼の蹴ったボールも、クロアチアのキーパーに止められた。
日本は3人連続で失敗し、1−3で敗れた。
ベスト8の壁は、また越えられなかった。
あの夜の、後悔はきっと、彼の足のどこかに、ずっと残っている。
91分、リヴァプール
2023年1月29日、ブライトン。
FAカップ4回戦、対リヴァプール戦。前のシーズンのカップ覇者を、ブライトンが自宅へ呼んでいた。
1−1のまま、試合は終わりに向かっていた。
91分。
──薫が、右足の外側で、ボールをすこし押し出す。
アウトサイドキック。ゆるやかにカーブしながら、ボールはゴールの隅に吸い込まれていく。
2−1。
イングランド最古のカップ戦で、ブライトンが、王者リヴァプールを蹴り出した夜。
ぬるぬるドリブルは、いつのまにか、ぬるぬるシュートに変わっていた。
FAカップ公式チャンネルが配信した、91分の決勝弾。アウトサイドにかかったボールがゴール左下へ吸い込まれていく、その一連の動き。
プレミア最多、月間ベストゴール
2022-23シーズン、ブライトンで41試合10得点。
──プレミアリーグの日本人としては、当時、シーズン最多に並ぶ数字だった。
翌2023-24シーズン開幕第2節、ウォルヴァーハンプトン戦のゴールが、プレミアリーグの月間ベストゴールに選ばれる。日本人としては、初めての受賞だった。
腰の冬
2023年12月21日、クリスタル・パレス戦。
好調そのもののままシーズン前半戦を駆け抜けていた途中、薫は、自分の腰に違和感をおぼえる。
それからしばらくして、彼は自分のSNSで、シーズン残りを欠場することを明らかにした。
2023-24シーズンは、20試合3得点で止まる。
プロになってから、初めての、長い冬だった。
アジアカップの帰り道
腰の違和感を抱えたまま、薫は2024年1月、AFCアジアカップ2023カタール大会の日本代表に名を連ねる。
1月31日、決勝トーナメント1回戦のバーレーン戦で、後半22分から出場。
2月3日の準々決勝・イラン戦でも途中出場したが、日本は逆転を許して敗退した。
アジアの頂きにも、世界の頂きにも、まだ届いていない。──彼の23歳の終わりは、そういう手ざわりだった。
2024-25、復活の足
2024-25シーズン、薫は静かに戻ってきた。
2025年1月16日、イプスウィッチ・タウン戦でシーズン4点目。岡崎慎司の日本人プレミア・シーズン最多得点記録に並ぶ。
同じ月のマンチェスター・ユナイテッド戦で、シーズン5点目。
──日本人プレミア・シーズン最多得点が、彼の記録に書き換わる。
2月のチェルシー戦のゴールが、プレミアリーグの月間ベストゴールに選ばれる。受賞は、自身2度目。
腰の冬は、終わっていた。
リヴァプール戦のボレー
2025年5月19日、第37節リヴァプール戦。
1−2でリードを許す展開のなか、薫が、左足で、ボレーシュートを叩きつける。
ゴールへ、刺さった。3−2、ブライトンの逆転勝ち。
薫はシーズン10ゴールに到達した。──プレミアリーグで、日本人として初めての、シーズン2桁得点だった。
1−2で迎えた終盤、左足のボレーが決まる。シーズン10ゴール、日本人初のプレミア2桁得点の瞬間。
10月、また止まる
2025-26シーズンが始まった。
9月のボーンマス戦で、薫はシーズン初ゴール。
けれど、10月のチェルシー戦で、また足が止まる。
離脱、約2ヶ月半。
ピッチへ戻ってきたのは、明けて2026年1月。リヴァプール戦の途中出場だった。
怪我からの帰還が、彼のキャリアの新しい癖になりつつあった。
プレミア100試合
2026年1月20日、バーンリー戦。
薫は復帰後はじめての先発で、プレミアリーグ通算100試合出場を達成する。
吉田麻也、岡崎慎司に次いで、日本人プレーヤーとしては3人目の100試合だった。
海を渡ってからここまで、4年半。──ロンドン郊外の小さな街のクラブの背番号22は、いつのまにかリーグの背景の一部になっていた。
ウェンブリーで、イングランドを
2026年3月31日、ロンドン。
サッカーの聖地・ウェンブリーで、KIRIN WORLD CHALLENGE 2026、対イングランド戦。
FIFAランキング4位の、お膝元。
後半、日本のカウンター。
薫は自分でドリブルで持ち込んでから、左に走り込んだ中村敬斗にパスを出す。
中村が低く折り返す。
ペナルティエリアの右、薫の右足が、そのクロスをダイレクトでとらえた。
ゴール右下。1−0。
──日本代表が、ウェンブリーでイングランドに勝った、史上初の夜。
JFA公式が公開した「Team Cam vol.03」。日本代表がウェンブリーでイングランドに史上初勝利した夜の、ピッチサイドの記録。
3年連続、月間ベストゴール
2026年4月19日、トッテナム・ホットスパー戦。
1点ビハインドで迎えた前半アディショナルタイム3分。
右からパスカル・グロスのクロスがあがる。
ボックス内左で待ち構えていた薫が、左足でボレーをたたきこんだ。
ブライトン同点。2−2のドロー。
5月、プレミアリーグは発表する。──
4月の月間ベストゴール、三笘薫。
受賞は、3シーズン連続。同じ選手が3年つづけてプレミアの月間ベストゴールに選ばれるのは、リーグの歴史でも、なかなか起こることではない。
前半アディショナルタイム、左足のボレーがゴール右隅へ。3年連続のプレミアリーグ月間ベストゴール受賞作。
5月9日、左の太もも
2026年5月9日。
プレミアリーグ最下位のウォルヴァーハンプトン戦。ブライトンは3−0でリードしていた。
55分。
──薫はディフェンスラインの背後に走り出した瞬間、左足を、押さえた。
ハムストリング。
彼はピッチを去り、そのまま、シーズン最終戦も欠場することが決まる。
リーグ戦25試合、3得点1アシスト。背番号22の、2025-26シーズンは、そこで止まった。
5月15日、26人の名簿
2026年5月15日。
森保ジャパンの、北中米ワールドカップ最終メンバーが発表される。
そのリストのなかに、三笘薫の名前は、なかった。
ハムストリングの回復は、6月のグループリーグに、間に合わない。
──2018年から、毎日のように夢を見続けてきた、ふたつめのワールドカップは、こうして、彼の手から、するりと逃げた。
彼自身は、最後まで間に合わせるという気持ちを口にしていたと伝えられている。けれど、サッカーは、本人の意志だけでは止められない速さで進む。
鷺沼でボールを蹴り始めた少年は、いま、29歳。
もう一度、ピッチへ。──それだけが、彼の目の先にある。
結び ─ ボールは止まらない
鷺沼の小学校のグラウンドで、ボールをはじめて蹴った男の子がいた。
彼は、トップ昇格を1度断った。卒論で自分のドリブルを言葉にした。Jリーグ史上最高額で海を渡った。ベルギーでハットトリックを刻んだ。カタールで、1ミリだけライン内に残ったボールを、幼なじみの足元に折り返した。ウェンブリーで、イングランドを倒した。プレミアの月間ベストゴールを、3年つづけて受賞した。
そして、いま──彼は、走るのをやめている。
けれど、ボールは止まらない。
怪我から戻ってきた回数は、もう、両手で数えられないほどになった。北中米のピッチには、間に合わなかった。けれど、その次のピッチが、必ずある。
考えながら、走り続ける男が、ここにいる。
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